24時間勤務アケで、台東区の台東周辺を散歩。
区境を行ったり来たりしたが、ほぼ台東区のエリア。
最初だけ千代田区が多い。
◆神田須田町一丁目
この広い道路は歩いたことが何度かあるがいつもは車道の反対側を歩いていたのでこの由来版には気が付かなかった。
江戸の町の整備が本格的に始まったのは慶長年間(1596年〜1615年)に入ってからのことです。それまで、須田村と呼ばれていた神田川周辺も、農村から町人の町に生まれ変わりました。しかし、昔からの地名は残されたようで、明暦三年(1657年)の「新添江戸之図(しんてんえどのず)」には「すた町」と記されています。
江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とだいたい同じ範囲を指していたようです。また、文政七年(1824年)の「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)」を見ると、江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったことがわかります。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。
さらに明治以降、数多くの繊維関連の問屋が軒を連ねるようになりました。その理由について、専門家のなかには、神田川南岸の柳原(やないはら)土手(現在の和泉橋付近)で江戸期に開かれていた古着市の伝統を引き継いだためと考える人もいます。
つまりこの周辺は、江戸期以来の“商いの町”としての伝統が、いまだに生き続けている土地なのです。
◆万世橋
今までにも何度もわたって、日記に書いた橋。
詳細はこちら
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170815/1503050085
江戸時代の外神田四丁目周辺には武家屋敷のほかに、商人や職人の住居が立ち並ぶ「松下町二丁目」「松下町三丁目」、「永富町三丁目」と呼ばれる町屋がありました。明治二年(1869年)、これらの三町が合併し、さらに武家屋敷も編入して新しい町、松富町が誕生しました。新町名は、松下町と永富町から一文字ずつとってつくられたのです。
松富町を考えるうえで欠かせないのが、町の真ん中を走るメーンストリートです。現在の中央通りにあたるこの道は、江戸時代、将軍が上野の寛永寺へ参詣するときに行き来する道でもありました。とくに毎年正月十日に行われた「正月御成」では、将軍は必ずここを通ったので、道の名前まで御成道と呼ばれるようになりました。ちなみに、将軍御成の当日には、沿道の家は火を使うことも許されないほど、厳重な警備体制がしかれました。
町内には昭和四十年(1965年)ころまで倉稲魂命(うかのみたまのみこと)三座を祭る「三社稲荷神社」がありました。大変住民に親しまれたお稲荷様で、毎月二、五、十八日には、必ずお祭りが開かれていました。
ここはかつて、神田栄町と呼ばれていました。
江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた地域で、幕末のころの絵図には、この一帯が豊前小倉(ぶぜんこくら)藩小笠原家の中屋敷となっていたことが記録されています。ちなみに中屋敷とは、上屋敷(本宅)に対する控えの屋敷のことで、跡継ぎなどが居住しました。
この界隈が大きく様相を変えたのは明治維新後のことです。明治二年(1869年)十二月、神田相生町)から出た火事によって、現在の外神田周辺は焼け野原となってしまいました。そこで明治新政府は、神田竹町(かんだたけちょう)、神田平河町(かんだひらかわちょう)、神田松永町)などに、防火のための空き地(火除地)を設置します。それらの町に住んでいた人たちがこの界隈に移転させられ、神田栄町ができたのです。「栄」という名前は、住民が町の繁栄を祈願して付けた町名であるといわれています。
明治四十四年(1911年)、町は栄町と改称しますが、昭和二十二年(1947年)、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立した際、ふたたび神田栄町となりました。そして昭和三十九年(1964年)、住居表示の実施で神田亀住町や神田元佐久間町とともに、現在の外神田五丁目となりました。
続く。