2021/12/23 神田散歩 02 豊潤稲荷神社/庄之助神田須田町店/神田青果市場発祥の地/神田市場(神田須田町一丁目)/須田町歩道橋/府内藩松平家上屋敷

淡路町駅から都営新宿線小川町駅方向へ向かう。



◆豊潤稲荷神社

以前来たことがある。
2017/08/17 淡路町散歩 06 観音坂/山本歯科医院/出世稲荷神社/豊潤稲荷神社 - ovanの社会科見学











◆庄之助神田須田町

歴史がありそうだったので写真を撮って調べてみた。
HPがあった。
https://www.syounosuke.jp/history










神田青果市場発祥の地

以前来たことがある。
2017/08/17 淡路町散歩 03 神田青果市場発祥の地/神田市場/須田町歩道橋/延壽稲荷神社 - ovanの社会科見学

『 この市場は 慶長年間に今の須田町附近, 当時は八辻ヶ原と 称していた この地一帯において発祥したものである。年を追 って益々盛大となり 徳川幕府の御用市場として 駒込, 千住と 並び 江戸三代市場の随一であった。ためにこの市場には 他市 場で見られない優秀なものが豊富に入荷した。そして上総房 州方面の荷は 舟で龍閑町河岸へ, 葛西, 砂村方面のものは 今 の柳原稲荷河岸から水揚げされた。当時の記録によると この 市場の若い衆達が 白装束に身を固めてかけ声も勇ましく 御用 の制札を上に 青物満載の大八車を引いて 徳川幕府賄所青物御 所を指してかけて行く姿は 実に「いなせ」なものがあったと 云う。巷間江戸の華といわれた, いわゆる神田っ子なる勇肌 と 有名な神田祭は この神田市場にそのことばの源を発してい るものといわれた。こうして繁栄をきわめたこの市場は 江戸 時代から明治, 大正, 昭和へと 漸次その地域を拡大して この 地を中心に多町二丁目, 通り新石町, 連雀町, 佐柄木町, 雉 子町, 須田町にわたる一帯のものとなり その坪数は数千坪に 及んだ。この間大正12年9月関東大震災にあって 市場は全 滅したが 直ちに復興し 東洋一の大市場とうたわれた。惜しい 哉 この由緒ある大市場も 時代の変遷と共にこの地に止まると とができず, 昭和3年12月1日を期して 現市場である神田 山元町 東京都中央卸売市場神田分場へと移転した。当時数百 軒に及んだ問屋組合頭取は西村吉兵衛氏であった。風雪幾百 年永い発展への歴史を秘めて 江戸以来の名物旧神田青果市場 は 地上から永遠にその姿を消した。父祖の代から この愛する 市場で生きて来たわれわれは 神田市場がいつまでもなつかし い。あたかも生れ故郷のように, 尽きない名残りを この記念 碑に打ち込んで 旧市場の跡を偲ぶものとしたい。』










神田市場神田須田町一丁目)

こちらも来たことがある。
2017/08/17 淡路町散歩 03 神田青果市場発祥の地/神田市場/須田町歩道橋/延壽稲荷神社 - ovanの社会科見学



 中世の神田川右岸は、水田が多い農村地帯だったようです。幕府が編集した江戸の地誌である『御府内備考』には、町が整備される前、この周辺が須田村と呼ばれていたという記述があります。江戸初期の慶長年間(1596~1615)にも、この界隈を中心に「神田青物市場」の起源とされる野菜市が開かれたこともわかっています。
 水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、一万五千坪(約4万9500?)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。
 当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。つまり、現在のわたしたちが考える市場と違い、当時は市場の中に町があるといったイメージでした。巨大な市場でしたので、中にある町も須田町だけでなく、多町、佐柄木町、通新石町、連雀町なども市場の一部をかたちづくっていたのです。そして、これら五町の表通りには、野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、連日のように威勢のいい商いが行われていたということです。青物市場の別名である「やっちゃ場」は、そんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉なのです。
 江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和三年(1928)には秋葉原西北に、平成二年(1990)には大田区へと移転しました。それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています。須田町は、江戸からつづく活気あふれる商いの伝統が、いまだに息づく町なのです。
 現在の須田町中部町会は、この青果市場の中心であった連雀町と佐柄木町のそれぞれ一部が、関東大震災後の土地区画整理事業によって合併し、誕生しました。











◆須田町歩道橋

下は靖国通り












◆府内藩松平家上屋敷



現地には説明版など見当たらなかった。
google mapの位置は上の写真のところあたり。



古地図を見ると丸印のところに該当する名前があった。

『府内藩(ふないはん)は、豊後国大分郡府内周辺を支配した藩の一つ。藩庁は府内城(現在の大分県大分市)。』
府内藩 - Wikipedia










続く。