2021/11/28 神田散歩 竹橋/神田駅西口商店街/神田司町一丁目/佐竹稲荷神社/旭町/多町一丁目/神田駅

24時間勤務アケで、竹橋から神田駅まで散歩。
その後は大宮へ移動。
さいたま新都心駅から大宮駅まで散歩。






ここでは職場からいつもの散歩。
今回は神田駅へ向かう。





◆竹橋

スタートの職場。










◆神田駅西口商店街

商店街♪













神田司町一丁目



 ここは「神田司町一丁目」と呼ばれ、江戸時代には商人や職人の家が立ち並んでいた町でした。安政三年(1856年)の地図を見ると、三河町や皆川町、蝋燭町(ろうそくちょう)といった町があります。
 このうち三河町は、天正十八年(1590年)の徳川家康入府のとき、一緒に来た三河(現・愛知県)の武士たちが住んだ場所で、慶長年間(1596年~1615年)にこの武士が下谷に移ったあとにできた町です。
 皆川町は、江戸初期に皆川山城守(みながわやましろのかみ)広照(ひろてる)の屋敷があったといわれます。のち寛永のころ(1624年~1644年)から豊後府内(ぶんごふない)藩松平(まつだいら)家の屋敷に、貞享四年(1687年)からは陸奥福島(むつふくしま)藩堀田(ほった)家の屋敷地になっています。ここが町屋になったのは、元禄十年(1697年)ごろで、町名は皆川山城守にちなんで名付けられたといわれています。
 蝋燭町は、慶長十七年(1612年)に成立した古い町で、寛永のころ能楽師の幸若太夫(こうわかだゆう)の拝領地であったところが含まれてできました。町名はこのあたりに蝋燭づくりの職人が住んでいたことに由来しています。江戸中期以降には、武家屋敷がなく職人と商人の町として栄えてきました。時代を経てもそれは変わりなく、呉服関係、印刷・製本などの職人たちが多く住み、とくに建築関係では、町内の職人だけで家が一軒建てられたといわれています。また、商人も大店(おおだな)ではなく、生活に必要な八百屋や魚屋などが多く、人情味豊かな町でした。
 明治に入ると、東京全体の町割が刷新され、この界隈も明治六年(1873年)までに、三河町二丁目、皆川町、神田蝋燭町、旭町に再編されました。さらに関東大震災後、これらをまとめて新しい町をつくることが決まり、昭和十年(1935年)、四つの町が合併して「司町一丁目」が誕生しました。
 司町の名前は、神田神社の平田盛胤宮司(ひらたもりたねぐうじ)の命名によるもので、「司」が「者の頭領なれば、未来永劫栄ゆること疑いなし」という意味をもつことから名付けられました。
昭和二十二年(1947年)、神田区麹町区が合併して千代田区が成立したときに神田司町一丁目となり、さらに昭和四十一年(1966年)に住居表示の実施により内神田一丁目の一部と内神田二丁目の一部となり、現在に至っています。
 町名は「内神田」に変わりましたが、住民組織である町会では「司」の名前を引き継ぎ、「司町一丁目町会」として存続しています。いまではオフィスビルが多くなりましたが、人情味あふれる楽しい町会であることに変わりはありません。











◆佐竹稲荷神社

以前来たことがある。
2017/08/17 淡路町散歩 01 旭町/佐竹稲荷神社/西郷隆盛会館/一八神社 - ovanの社会科見学











◆旭町



 旭町は、寛永年間(1624年〜1644年)の江戸図によると、能楽師幸若太夫(こうわかだゆう)と、出羽秋田藩の藩主佐竹義宣(さたけよしのぶ)の屋敷地でした。
 その後、天和(てんな)二年(1682年)暮れの大火により、焼け野原となった佐竹藩邸は翌年、下谷三味線堀(したやしゃみせんぼり)に移りました。跡地は、新開地とあわせて町人地となり、永富町(ながとみちょう)二丁目〜四丁目、新革屋町代地(しんかわやちょうだいち)、元乗物町代地(もとのりものちょうだいち)の一部となりました。明治二年(1869年)、これらの地域は「旭町」と改名されました。
 旭町は佐竹家の紋から付けられた名前であるということですが、佐竹の紋について調べてみると次のようなことが書かれています。文治(ぶんじ)五年(1189年)、源頼朝藤原泰衡(やすひら)を討伐するため奥州平泉へ向かいました。そのとき常陸国(ひたちのくに)佐竹郷(さたけごう)の武士だった佐竹秀義(ひでよし)は、宇都宮で頼朝の軍に合流し御家人となりました。秀義の旗が自分と同じ無紋の白旗であるのを見とがめた頼朝は、識別のために満月が描かれた自身の扇を与えて、旗の上に付けさせました。それが佐竹家の「五本骨の扇に月」の紋の由来になったといわれています。
 明治二年、このあたりが、慶長九年(1604年)から七十数年にわたり、佐竹藩の江戸上屋敷(かみやしき)だったという縁で、当時の役人が佐竹家の家紋から町名を考えたのですが、月を日輪と間違えて「旭」という町名が発想されたようです。
昭和四十一年(1966年)に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。










◆多町一丁目



 江戸時代、この界隈には神田竪大工町(かんだたてだいくちょう)や新石町一丁目(しんこくちょういっちょうめ)といった町がありました。いずれも、商人や職人が集まり住んだ町で、寛永年間(1624年~1644年)には町が成立していたことが、「寛永江戸図」などからわかります。
 このうち竪大工町には、幕府の御用を請け負った大工たちが多く住んでいました。講談や落語で知られる大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の名奉行ぶり、「三方一両損(さんぼういちりょうぞん)」に登場する大工の吉五郎(きちごろう)もこの町の住人でした。また、火消し組の纏(まとい)をつくる「纏屋治郎右衛門(まといやじろうえもん)」の店も、この町にありました。
 一方、新石町一丁目は、俗に「河合新石町(かわいしんこくちょう)」とも呼ばれていました。明暦(めいれき)三年(1657年)の「新添江戸之図(しんてんえどのず)」にはすでに「新こく丁」の表記が見られます。
 ふたつの町は、それぞれ竪大工町、新石町と改名しながらも、昭和初期まで存続していましたが、昭和八年(1933年)、新たに多町一丁目となり、町会を結成し、また一部は鍛冶町二丁目に編入されました。
 昭和四十一年(1966年)、昭和にできた多町一丁目は、住居表示の実施により内神田三丁目(うちかんださんちょうめ)と変わり、現在に至っています。










◆神田駅

ゴールのJR神田駅。
ここからさいたま新都心へ向かう。




近くにあった地図。










続く。