神保町駅周辺から靖国通りを通って靖国神社でお参りし、市ヶ谷でゴール。
◆中猿楽町
ここはかつて中猿楽町と呼ばれていました。
室町時代以降、猿楽(のちの能楽)は、多くの武士たちに楽しまれるようになりました。なかでも観阿弥・世阿弥の流れを受け継ぐ「観世座」は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。その家元観世大夫や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町一〜二丁目から西神田一〜二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という名が生まれました。
この界隈は江戸時代、おもに武家屋敷が軒を連ねていました。もともと武家地には町名が付けられていなかったため、「中猿楽町」という町名が正式に誕生したのは、明治五年(1872)のことになります。
ところで町内には、大正三年(1914)、中国の留学生が日本国内で進学する際、欠かすことのできない日本語や英語、数学などを専門に教える東亜高等予備学校が設置されました。中華人民共和国成立後、国務院総理(首相)を務めた周恩来(しゅうおんらい)も、大正六年(1917)から約二年間、この学校で学んでいます。中猿楽町はその後、昭和九年(1934)、神保町二丁目と西神田一丁目の一部に組み込まれました。この地域の町会は、その名に「中猿」の二文字を残し、神田中猿町会と名乗っていましたが、昭和二十九年(1954)四月、神保町と西神田の町名から「神西(じんせい)町会」と改めて、現在に至っています。
◆爼(まないた)橋
下は日本橋川。
『難読として知られる。橋銘は「爼」となっているが、一般的には「俎」と表記されることが多い。他に「俎板」や「魚板」などとも書かれた。稀に「姐」と誤記される。名前の由来は、橋が2枚の俎(まないた)を渡したような板橋であったことによるとする説と、近くに存在した台所町との関連で名付けられたとする説がある。』
俎橋 - Wikipedia
寿人遊星
この彫刻は、1986年ハレー彗星の地球接近を記念し、人々の清福を望み、星と縁(ゆかり)の深い、”寿老人”を模して制作されたものであり、「彫刻のあるまち・千代田」とし潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した絵本「神田方言(かたこと)」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。
古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。1871年(明治4年)、九段坂の上に靖国神社の燈籠として高燈籠(常燈明台)が建設されました。また、高燈に隣接して陸軍の将校クラブである偕行社(かいこうしゃ)が建てられました。
関東大震災後の帝都復興計画で坂を削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段板は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となりました。この工事の際、高燈籠は通りを挟んだ反対側(現在地)に移設されました。
◆靖国神社
暑かったー。
美味しいご飯を食べることができ、靖国神社にもお参りできて、久々の散歩は大満足。
神保町は歴史あるお店、名建築がたくさんあるんだね。
日記は国立公文書館へ続く。