2021/12/29 北の丸散歩 03 近衛歩兵第一聨隊跡記念碑/日本武道館時計台/日本武道館/田安門/九段坂/高燈篭 常燈明台

北の丸公園を北上。




◆近衛歩兵第一聨隊跡記念碑



 近衛歩兵第二聨隊は、明治7年1月23日、日本陸軍最初の歩兵聨隊として創設され明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年大東亜戦争終結に至るまで、70余年の間此の地に駐屯して日夜皇居の守護に任じ、この間明治10年西南の役、ついて日清事変にて南支、佛印へ出征し、輝かしい勲功を残した。
 近衛兵は毎年全国から選抜された、優秀な壮丁を以って編成されていた。



 田安門、渡櫓(わたりやぐら)門をくぐり、弾薬庫の名残を留むる大銀杏を仰ぎつつ、ここ聯隊跡記念碑前に佇めば、雄叫びの聲、軍靴の響き耳底を打ち、往年の光栄の日々眼前に彷彿たり。
 此所は、北トンネルの出口(營庭(えいてい))に当たる所、そぞろ怡和園(いわえん)の樹間を縫いて千鳥ヶ淵湖畔を逍遥し、赤煉瓦も懐かしき師団司令部に到れば、その傍らに、皇居の守護神
 北白川宮能仁(よしひさ)親王殿下の御銅像の儼然(げんぜん)として屹立するを見る。時計台は何処(いずこ)、アーク灯は奈辺(なへん)にありしや。思い出は津々として尽くるところを知らず。
 年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからずとは雖も、選ばれて近衛兵となり、輦下(れんか)に奉仕せる吾等、たとい魂魄となりても永久に皇居を守護し奉らん。



 








日本武道館時計台

 








日本武道館



綺麗な花が咲いていた。



 








◆田安門




 江戸城は、長禄元年(1457)に太田資長(道灌)によって創られたとされる。天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592)から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607)に天守閣が、寛永13年(1636)に総構(そうがまえ)が完成し、大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657)をはじめ、数度の大火に見舞われものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。
 田安門は、北の丸北部に位置する枡形門(ますがたもん)であり、正面の高麗門(こうらいもん)と、その右手奥の櫓門(やぐらもん)からなる。門の創建年代は明らかではないが、現在の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から寛永13年に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は破損のため大正末期から昭和初期にかけて撤去されていたものを、昭和36~41年度の修理で復旧整備したものである。田安門は、江戸城の総構完成当時に遡る現存唯一の建物であり、高い価値を有している。




 この門は九段坂上にあり、門の前の土橋が千鳥ヶ淵と低地の牛ケ淵の水位調整をしていました。江戸時代には江戸城北の丸から牛込門を経て上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点でした。門の名は、この大地が田安台と呼ばれ、田安神社(現在の築土神社)があったことに由来します。
 門は1620年(元和六年)に建築され、1636年(寛永十三年)に修繕されたものが現在に伝わっていると考えられ、高麗門は江戸城のなかでは最も古い建築物です。
 現存する石垣は戦災により崩れ、1965年(昭和四十年)の北の丸整備に合わせて修復されたものですが、地上から2~3段分は江戸時代の原型を保っています。
 








◆九段坂



 古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って立っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。明治後期、九段坂下から市ヶ谷方面に市電を通すため、牛ヶ淵(北の丸公園に沿った堀)側の勾配を削って線路を敷設しました。
 関東大震災後の帝都復興都市計画で坂を大幅に削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となり現在に至ります。



 








◆高燈篭 常燈明台



 高燈籠(常燈明台)は、明治4年(1871)靖国神社(当時は招魂社)の燈籠として設置された。
 方位版や風見が付けられ、いわゆる擬洋風建築の印象を醸した燈籠で、高さは16.8m。小林清親が描いた錦絵に、設置当初の高燈籠が登場している。
 九段下の上に設置されたため、品川沖を出入りする船の目印として、東京湾からも臨むことができ、灯台の役目も果たした。
 かつて九段坂は急坂であり、いくつかの段が築かれていたが、関東大震災の帝都復興計画により勾配を緩やかにする改修工事が行われた。高燈籠は、当初は靖国通りをはさんで反対側に立てられていたが、この改修工事に伴い、大正14年(1925)に現在地に移転した。
 








続く。