2021/12/23 神田散歩 01 竹橋/小川町二丁目(北部)/新御茶ノ水駅・小川町駅/小川町一丁目(北部)/淡路町一丁目/大野藩土井家上屋敷跡

24時間勤務アケで、職場から御茶ノ水駅まで散歩。





まず職場から東京メトロ淡路町駅方向へ向かう。



◆竹橋

スタートの職場。










◆小川町二丁目(北部)



 江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693年)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹(ねぜり)をあらひこそすれ」と詠んでいます。
 安政三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、このあたりには山城淀(よど)藩稲葉家の上屋敷がありました。稲葉家の屋敷前を通る道は、およそ百五十年を経た現在も、この付近で大きく湾曲する靖国通りの道筋として受け継がれています。
 明治五年(1872年)、周辺の武家地を整理して小川町となり、明治十一年(1878年)、神田区に所属します。
 町内には東京物理学校、私立鳥海(とりうみ)女学校、東京顕微鏡院など、学校や病院がありました。東京物理学校は現在の東京理科大学の前身で、夏目漱石の小説『坊っちゃん』の主人公が学んだ学校です。
 また、幸徳(こうとく)稲荷神社は、稲葉家の屋敷神として祀られていたもので、当時は鍛冶屋(かじや)稲荷と称し、五穀豊穣と武運長久を祈願された由緒ある社です。
昭和八年(1933年)、区画整理により、ここは小川町二丁目となります。昭和二十二年(1947年)に神田区麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町二丁目となりました。











新御茶ノ水駅小川町駅



近くにあった地図











◆小川町一丁目(北部)



 江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693年)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
 小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹(ねぜり)をあらひこそすれ」と詠んでいます。
 安政三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、このあたりには山城淀(よど)藩稲葉家、豊後府内藩松平家越前大野藩土井家の上屋敷がありました。
 明治五年(1872年)、周辺の武家地を整理して、西側は小川町、東側は淡路町一丁目となり、明治十一年(1878年)、神田区に所属します。この界隈は、鍛冶屋稲荷神社(現在は幸徳稲荷神社と改称し、小川町二丁目に遷座(せんざ))のほか、西洋料理店やビリヤード場、学校、印刷所などが立ち並び、周辺の雉子町(きじちょう)、美土代町(みとしろちょう)、錦町(にしきちょう)、表神保町(おもてじんぼうちょう)などとともに東京を代表する繁華街として栄えました。
 昭和八年(1933年)、区画整理により、ここは小川町一丁目となります。昭和二十二年(1947年)に神田区麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町一丁目となりました。











淡路町一丁目



 江戸時代のはじめ、この地には将軍家と関係が深い寺院がありました。
 「寛永江戸図」によると、観音坂を下りきったあたりに「西福寺」「西念寺」が記されています。西福寺は慶長三年(1598年)、徳川家康が故郷の三河から呼び寄せた寺です。一説には、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いの際、織田軍に包囲された家康を救ったのが同寺の了伝和尚(りょうでんおしょう)で、家康はこの恩にむくいるため、新たな寺を寄進したともいわれています。
 寛永年間(1624年~1644年)にこの二つの寺が移転したあと、ここは内藤伊賀守(いがのかみ)の屋敷となりました。そして貞享四年(1687年)以降は豊後府内藩主である大給(おぎゅう)松平家上屋敷となり、幕末を迎えました。
 明治五年(1872年)、この界隈(かいわい)は、神田淡路町一丁目と正式に名付けられました。この名前は、鈴木淡路守の屋敷があったことから名付けられたという「淡路坂」(現・神田淡路町二丁目)に由来しています。
 明治五年当時は、町内のほとんどが華族である大給近道(おぎゅうちかみち)の屋敷地だったと「東京府志料」に記されています。











大野藩土井家上屋敷




現地には説明版などみあたらなかった。
google mapの位置は上の写真のところあたり。



古地図では写真の場所を召すマークが赤丸のところあたりにあたる。
印の上の敷地部分は、越前大野藩とあるね。

大野藩(おおのはん)は、越前国大野(現在の福井県大野市)に存在した藩。居城は大野城亀山城)。 』
大野藩 - Wikipedia










続く。