2018/07/10 天沼散歩 05 民間信仰石塔/民間信仰石塔/天沼地蔵前公園/中央線ガード/庚申塔/明治天皇荻窪小休所

この日記のエリアはもう中央線周辺。
ガードをくぐって南側をちょこっと散策。



民間信仰石塔








 ここに建立されている石塔は、宝永元年(1704)銘・元文五年(1740)銘の庚申塔享保十五年(1730)銘の地蔵塔、宝暦九年(1759年)銘・享和三年(1803)銘の百番観音供養塔です。いずれも天沼村の村民が現世での幸運と来世井での往生安楽を願って造立したもので、当時の人々の信仰心の一端をよく伝えています。
 庚申信仰は、長寿のためには庚申の夜は身を慎んで徹夜をすべきである、という道教説に始まるといわれ、中世以降庶民の間にひろまりました。江戸時代には、各地に講がつくられ、庚申塔の造立も盛んとなりました。この2基の庚申塔青面金剛・三猿等を浮彫りにした標準型の塔で、講中による造立です。
 「お地蔵様」と呼ばれて人々に親しまれている地蔵菩薩は、人間の苦を除き楽を与え六道衆生を救済する仏として信仰を集めました。また、境の守護と村の安全の守護を行う仏ともされ、村境や辻に多く造立されています。
 百番観音信仰も江戸時代には庶民の間に浸透しました。特に関東地方では西国・板東・秩父の100カ所霊場巡拝が盛行し、巡拝記念あるいは巡拝と同じ功徳を得るための百番観音供養塔が造立されました。ここの享和3年銘の供養塔は百番観音信仰と光明真言信仰とを一体にしたもので、区内では数少ない作例です。
こ れらの石塔は地域の区画整理の際に集められたもので、庚申塔は南方の桃園川辺の路傍、地蔵塔と供養塔は西方の熊野神社際の路傍からの移転です。
 なお、石塔隣の区画整理記念碑は、整理の完了した昭和十三年に建てられたものです。




民間信仰石塔




 ここに建立されている石塔は、向って右から元禄十一年(1698)銘駒型庚申塔、宝永二年(1705)銘舟型地蔵塔、享保十二年(1727)銘角柱型庚申塔で、天沼村の旧道と思われる道に面して建てられています。いずれも天沼村の講中によって造立されたもので当時の講員の名も刻まれていますが、駒型庚申塔と地蔵塔は台石部の人名を判読することが困難になっています。
 庚申信仰は、長寿のためには庚申の夜は身を慎しんで徹夜をすべきである、という道教説に始まるといわれ、中世以降には庶民の間に広まりました。江戸時代には各地で講が結成され、庚申塔を造立するようになりました。庚申塔青面金剛を本尊とし、三猿を配するのが一般的ですが、角柱型庚申塔は、元は笠付文字塔であったものが軸部のみ残されたものと思われます。
 地蔵菩薩は、人間の苦を除き楽を与え六道衆生を救済する仏として信仰を集めました。また、冥界と現実界の境に立って人々を守護するということから、村の安全を守護する菩薩とされ、村の路傍または辻に多く建立されています。
これらの石塔は、杉並区内では比較的古いもので、江戸時代中期の典型的型式のものです。また、天沼村の民間信仰を知ることができることから杉並区登録有形民俗文化財となっています。





◆天沼地蔵前公園

 上記の「民間信仰石塔」のお地蔵様の前にある公園だからこの名前が付いているものと思われる。





◆中央線ガード



名前があるんだろうけれど、それらしいものがどこにもなかった。
ガードというよりはトンネルなんだろうか?




庚申塔



近くまで行くことができない。
見た目は新しそうな庚申塔である。




明治天皇荻窪小休所



明治16年(1883)年4月16日、埼玉県飯能の近衛師団演習統監に向かう途中、同年4月23日には、小金井の観桜会へ向かわれる途中の計2回、こちらで休憩されたとのこと。




荻窪駅でゴール。
荻窪駅の写真撮らなかった(w
江戸川区を散歩しまくったあとに杉並区に来ると、公園が少なく感じる。
給水やトイレのポイントは事前にチェックした方がいいかもだね・・・・。

2018/07/10 天沼散歩 01 阿佐ヶ谷駅/阿佐ヶ谷弁天社/阿佐ヶ谷神明宮/日大二高商店会/庚申塔/出世大鷲神社

珍しくお休み。
阿佐ヶ谷駅から中央線の北側を荻窪まで歩いた。
朝早めの涼しい時間に出掛けたかったのだけど、耳鼻科の予約があったのでいつもと変わらない時間からの散歩になった。



◆JR阿佐ヶ谷駅

スタートの阿佐ヶ谷駅
すでに暑い!




◆阿佐ヶ谷弁天社

工事中で入れなかった。
職人さんか誰かかな?
「入れねーよ!」
って、乱暴だったなあ・・・・・。




阿佐ヶ谷神明宮



2017/08/07 に、一度来ている。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170807/1502508766




日大二高商店会





庚申塔



あまりにも普通の住宅地にポツンとあった。




◆出世大鷲神社




当社は出世大鷲神社と称し、御神体は剥製の大鷲です。
この地は天沼本村と呼ばれた農村地帯で、主に東京への野菜供給地でした。大正十年一月十一日、現在の本天沼二丁目37番付近の畑地にあった赤松に飛来した鷲を、村の人たちが悪戦苦闘の末仕留めました。羽を広げると2メートル以上もある大鷲でした。村中の人達が見物に来、村に祟りでもあると大変なので、おとり様としてお祀りしようと話がまとまり、一社を建立しました。その後毎年十一月の酉の日には市がたち、天沼本村だけでなく近郷近在の名物として狂言や踊りなどの余興を催したり、賑やかなお祭りがありました。今でも酉の日には、町の有志により商売繁盛を祈る熊手が売られています。
石の鳥居は、昭和六十三年に建てられました。
前を通る早稲田通りは拡張され、、今では平坦な道となっていますが、昭和初期の区画整理前は大鷲神社から西へ向うところは“げんぼう坂”と呼ばれ、かなり急な坂道で荷車を引く者にとっては難所の一つになっていました。







続く。

2018/07/10 天沼散歩 02 松下橋/銀杏稲荷/松下上橋/稲荷神社/天沼児童遊園/意案地蔵尊

一気に北上。
この日記のエリアは西武線下井草の方が近い。



◆松下橋

下は妙正寺川
水量が少ないけど、いつもこんなんかな?









◆銀杏稲荷神社



 当社は旧下井草村の鎮守で、社名は神社の裏山にあった銀杏の大木に由来しています。
 創建は棟札に「抑当社勧請者元和二(1616)歳比、先祖外記造営(下略)」とあり、井口家の先祖である井口外記といわれています。
 井口家は相州(現神奈川県)の三浦氏の末裔といわれ、天正年間(1573-1592)に当地に移り住んだもので、その一族の多くは名主・年寄役などを勤めました。井草の地名のおこちも井口姓を名乗った長佐衛門なるものが「草分け長佐衛門」と呼ばれたことからおこったという説もあります。
 村の鎮守として祀られた当社は、かつては境内も二百坪ほどあり、江戸時代には下井草村の妙正寺別当として管理していましたが、現在は井口家を中心とする三十数軒の講中の稲荷として地元の人々に信仰されています。
 現在も残されている、文政十二年(1829)二月に下井草村氏子中が奉納した「正一位銀杏稲荷大明神」の大幟は当時からも稲荷信仰が盛んだったことをうかがわせる貴重な資料です。
 毎年二月初午には世話役の頭を中心にして、この大幟と各講中持ち回りの幟を立て、井草八幡宮より御幣を戴き、御神酒及び種々の御供物をして、赤飯を子供達に与え、五穀豊穣・講中安全・子孫繁栄を祈願しています。
祭礼は二月初午です。





◆松下上橋

また、妙正寺川を渡る。









◆稲荷神社



境内社

変わった形だけど、こちらも社だと思われる。






◆天沼児童遊園

細長い三角形の形をした公園だった。




◆意案地蔵尊

天沼児童遊園に隣接。






続く。

2018/07/10 天沼散歩 03 猿田彦神社/厳島神社/三峰神社/本天沼稲荷/宝湯/天沼共和会

このエリアから南下する。
遊歩道があったが、調べてみると暗渠となった桃園川とのことだった。
杉並区郷土博物館分館のある天沼弁天知公園が水源とのこと。
知らなかった・・・・。


2015/07/15
杉並区郷土博物館分館に行ったときの日記。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20150715/1437068141




猿田彦神社









厳島神社

下記の三峰神社と同じ敷地内にあった。
どちらが境内社になるかわからない。





三峰神社






本天沼稲荷神社

下記を読むと、上記の猿田彦神社厳島神社(市杵嶋神社?)、三峰神社はこちらの境外末社ということらしい。




 当社は旧天沼村本村の鎮守です。祭神は保食神で、境外末社として猿田彦神社猿田彦命本天沼2-26)、市杵嶋神社(市杵嶋比売命、本天沼2-5-15)、三峰神社伊弉諾命・伊弉册命、本天沼2-5-15)を祀っています。
 創建年代は当社の別当職をつとめていた蓮華寺過去帳に「慶長十九年(1614)、板倉周防守より本社境内を除地とする」と記録されていることから、それ以前とも考えられますが、詳しいことは明らかではありません。しかし社伝によれば、稲荷信仰が村内に広まったのは、寛永十二年(1635)に当地が赤坂山王社(山王日枝神社)領となってからと、伝えています。
また、江戸時代の当社について「新編武蔵風土記稿」には「除地百五十坪、小名本村にアリ、此所ノ鎮守ナリ、本社三尺四方、上覆二間ニ三間」と記されています。
 現在の本殿は、明治初年に前記の山王社の内殿を譲りうけて移築したもので、社殿は、平成十五年に新たに造営されたものです。
文化財として、内殿移築と同じ頃に山王社(山王日枝神社)から奉納された祭礼の様子を画いた畳二畳ほどの大絵馬(区指定文化財)、弘化五年(1848)二月奉納大幟、文政六年(1823)四月銘の手洗水盤などがあります。




板絵着色祭礼図一面




本大絵馬は、明治初年旧天沼村の氏子中が奉納したもので、桧板三板を横矧にし、飾金具を配した漆塗りの額で装飾されています。横長の画面には幟を立てた社殿、赤丸に「天」と染め抜いた半天を着た人々、裃姿の武士、そして山車上の囃子方など、祭礼の情景が生き生きと描かれています。作者の「陸斎」はどのような人物であったか不詳です。画面の「玉村作」は裏面の墨書から額師と考えられています。祭礼の情景を描いた区内唯一の絵馬で、また絵師、額師名も記された貴重なものです。



楽殿



鳥居




◆宝湯




◆天沼共和会





続く。







◆宝湯

2018/07/10 天沼散歩 04 天沼出世大黒天/天沼八幡神社/庚申塔/藤乃湯/変わった街灯/天沼熊野神社

まだまだ南下。
たまに豪邸があるが、普通の住宅が多い。



◆天沼出世大黒天





◆天沼八幡神社

別のページで。
2018/07/10 天沼八幡神社 - ovanの社会科見学





庚申塔

google map に載っていたので来てみたが、現地には何もなかった。
マークの位置はこの写真の場所で合っていると思う。




◆藤乃湯





◆変わった街灯




こんな宙吊になってる街灯初めて見たかも。





◆天沼熊野神社





 この神社は、旧天沼村の鎮守で、伊邪那美命が祭神として祀られています。
創立については詳ではありませんが、社伝によれば、神護景雲二年(768)、東海道巡察視が武蔵国に来たときに、氏神を勧請し別当を置いたのがはじまりと伝えています。
 また一説には、元寇三年(1333)、新田義貞北条高時を討つために鎌倉へ軍を進める途中この地に陣をしき、社殿を創設したとも伝えられています。その後、応永二年(1395)朝倉三河守という武将がこの地に帰農した際、社殿を修理し、十に社権現と称するようになったといわれています。熊野神社と名称を改めたのは明治維新以後のことです。
 天沼は古来からの名称で、奈良時代末期の武蔵国の「乗瀦駅(あまぬま)」から起こったといわれていますが、諸説があって定説はありません。この辺りからは室町時代の板碑が出土していることから、その頃すでに開発が進んでいた地域と考えられます。また、蓮華寺過去帳によれば、天沼村はおそくとも慶長年間(1596-1615)には成立していたものと考えられます。
 境内には、直径二メートルにも及ぶ大杉の切株がありますが、社伝によれば、この杉は新田義貞がこの地に陣をしいた際、戦勝を祈願して手植えしたものと伝えられています。惜しいことに、枯死したため昭和十七年伐採され、今では切株で昔をしのぶだけとなっています。
そのほか境内には、文化十四年(1817)九月奉納の石造鳥居と、文久二年(1862)九月奉納の石造手水盤があります。



出世杉の根

 この古木は、写真左側の杉の木の根であります(昭和十六年頃)。
 写真二本の杉の木は、新田義貞公が鎌倉幕府を倒すため、鎌倉へ進軍中(1333年)、この天沼の熊野神社に立ち寄り勝利を祈願してお手植えしたと伝えられています。
 新田義貞公が、その願いを叶えた為、近隣の古老達は、この杉を「心願成就の杉」とか「出世杉」と呼んで大切にしてきました。残念なことに、昭和二一年に枯れた為二本とも切ってしまいました。その後は、左の杉の切り株だけが残って、地上に顔を出していましたが、平成二年に掘り出された後、平成七年に整備され現在に至っています。
 皆様も、この杉の木にご祈念なさって願い事を叶えてください。



稲荷神社/三峰神社・太現神社・須賀神社




鳥居




白玉稲荷神社


鳥居





続く。

2018/07/10 天沼八幡神社


『当神社は、旧天沼村字中谷戸の鎮守で天正年間(1573年 - 1591年)の創建と伝えられている。別当寺は蓮華寺であった。明治40年(1907年)に四面道の鎮守厳嶋神社を合祀した。昭和2年(1927年)に村社となる。境内には大鳥神社があり、毎年11月の酉の日には酉の市が開かれ熊手などが売られる。 』
天沼八幡神社 - Wikipedia




 この神社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡天沼村の条に八幡社とあって「除地、百五十坪、コレモ中谷戸ニアリ此所ノ鎮守ナリ本社ハ三尺四方ニテ覆屋二間ニ三間南向例祭九月ニテ下ノ稲荷十二所権現ト交ル々々行ヘリト云ウ」と記されているように、旧天沼村字中谷戸の鎮守で天正年間(1573-1591)の創建と伝えられています。
 主祭神は第十五代応神天皇誉田別命(ほんだわけのみこと))で、地元からは武運の神として崇敬を集めました。そして、明治四十年(1907)九月には、宇四面道(しめんどう)の鎮守であった厳島神社(祭神市杵嶋比売命(いちきしまひめのみこと))が合祀されました。市杵嶋比売命は合祀以来、水神・安産の神として深く信仰され、雨乞いの行事なども古くから伝えられています。昭和二年(1927)四月には村社となりました。
 現在の本殿は昭和五十二年(1977)に、神楽殿は平成十六年(2004)に改築が行われました。
 江戸時代に天沼村が麹町日枝神社(現、赤坂日枝神社社領であったため、日枝神社は古くから本社としてこの地に奉斎されました。日枝神社の他に、須賀神社金山彦神社(以上合祀)があります。境内末社として他に、稲荷神社(三殿)、境内摂社として大島神社があります。
 大島神社(祭神日本武尊)は、商売繁盛の神社として信仰され、毎年十一月の酉の日を祭日として熊手市がたち、当社では関連熊手守・福枡等を授与しています。社殿は平成二十八年(2016)に改築されました。





大島神社/金山彦神社・日枝神社須賀神社/稲荷神社





◆稲荷神社/稲荷神社





◆神楽殿





◆鳥居







場所はコチラ