2018/09/23 市ヶ谷散歩 01 飯田橋駅/庾嶺坂/堀兼の井/船河原築土神社/逢坂/新見附水門/新見附橋

48時間勤務アケで飯田橋から市ヶ谷を歩く。
付近は何度か来たことがあるが、改めてgoogle mapで検索したら、
まだ訪れてない場所があった・・・・。
付近を散歩したときの日記はコチラ↓


2017/07/23
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170723/1501323849



飯田橋駅




◆庾嶺(ゆれい)坂



 江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名をとったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(『御府内備考』)。別名「行人坂」「唯念坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」とも呼ばれる。



◆堀兼の井

「船河原築土神社」の前に碑と井戸があった。



 掘兼の井とは、「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。掘兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の掘兼の井には次のような伝説がある。
 昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。




 区の説明は、神社前の説明板の通りであるが、その後井戸は掘られ、下の写真のような木製の共同井戸として長い間使われてきたようである。
 地下鉄工事などの影響で一時枯れたが、平成21年に市谷船河原町町会により、防災井戸として現在の形に整備されている。(ちなみに、船河原町の町名は江戸期から続く名称で、他にもこの周辺にはいくつも残っています)


明治39年1906年)の「逢坂」と「堀兼の井戸」
レンガ塀のところに現在の神社がある。




◆船河原築土神社




九段に鎮座する『築土神社』の飛地社です。
とある。
以前行ったことがあった。


2017/10/24
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20171024/1509103837




◆逢坂



昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で、再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。




◆新見附水門

次の新見附橋手前の堤。
小さな水門が見えるが、それのことだろう。








◆新見附橋










木に見たこともない花が咲いていた。




続く。

2018/09/23 市ヶ谷散歩 02 名前のわからない坂/歌坂/鰻坂/芥坂(闇坂)/ごみ坂歩道橋/砂戸原町2丁目遺跡/浄瑠璃坂

この日記のエリアは先程のエリア南西方向。
ほぼ中央線沿いに移動したような形になる。
坂ばっかりだった・・・。



◆名前のわからない坂

良い坂なんだけど、名前がわからなかった・・・・。
法政大学の近く。



◆歌坂



 雅楽坂うたさかともいう。江戸時代初期、この坂道の東側には酒井雅楽(後の姫路酒井家)の屋敷があった(『新添江戸之図」)。坂名は雅楽頭(うたのかみ)にちなんで名付けられたのあろう。



◆鰻坂




一度下ってちょっと広い道に出たところで終わったと思ったら、今度は坂を登っていて、こちらも鰻坂。





 坂が曲がりくねっており鰻のような坂だ,という意味から鰻坂と呼ばれた。 『御府内備考』の払方長の項に「里俗鰻坂と唱候,坂道入曲り登り云々…」と記されている。




◆芥坂(闇坂)

ごみ坂と読む。



google mapに載っていたので来てみた。
この次の「ごみ坂歩道橋」に繋がっているので「芥坂」でいいのだと思う。



こちらのMAPでは「闇坂」と載っていた。



◆ごみ坂歩道橋








周りはDNP関連のビルが沢山。




◆砂戸原町2丁目遺跡



google mapに載っていたので来てみた。
マークの位置はこの工事中の建物あたり。
説明板などは何もなかった。


WEBで探したらこちらのページが見つかった。
http://www.syougai.metro.tokyo.jp/iseki0/iseki/list/ruins/13104/0376.htm




浄瑠璃



 坂名の由来については,あやつり浄瑠璃が行われたため(『紫の一本』),かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』),などの諸説がある。 江戸時代,坂周辺は武家地であった。 この一帯で寛文十二年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ,江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。




続く。

2018/09/23 市ヶ谷散歩 03 愛敬稲荷神社/牛込中央通り/東京アニメセンター/定火消発祥の地/日本陸用内燃機関協会

巡る順番を間違えて、少し浄瑠璃坂の方に戻る。
日本陸用内燃機関協会は浄瑠璃坂にあって、後で調べてみようと思って写真を撮る。



◆愛敬稲荷神社






牛込中央通り




東京アニメセンター

今回は展示に興味がなかったので入らなかった。
好きなアニメの展示をやっていたら見に行ってみようと思う。




◆定火消発祥の地




 万治元年(1658)、新たな消防制度として江戸に誕生した定火消の屋敷のひとつがこの市谷左内町21番地および市谷田町1丁目地内に置かれました。屋敷内には火の見やぐらが立てられ、定火消役の旗本以下、与力6人、同心30人、火消人足およそ100人が火事に備え、ここに初めて火消しの常駐する場所がつくられました。




◆日本陸用内燃機関協会

http://www.lema.or.jp/engine


『陸用内燃機関とは、自動車用、鉄道車両用、舶用、航空機用を除く産業用、汎用エンジンを指します。・・・中略・・・当協会では各々のカテゴリーで技術委員会又は研究会を設置し、技術の向上、環境対応を進めております。』

と、HPに紹介があった。
かなり興味がわいてきた!



続く。

2018/09/23 市ヶ谷散歩 04 浄瑠璃坂の仇討跡/鼠坂/中根坂東公園/長泰寺/因縁諸霊供養塔/市谷亀ヶ岡八幡宮/市ヶ谷駅

市ヶ谷のJICA、防衛相の脇を通り、最後の市ヶ谷駅に到着する。
浄瑠璃坂の仇討跡、鼠坂、はgoogle mapになかったなあ・・・。



浄瑠璃坂の仇討跡



 浄瑠璃坂と鼠坂坂上付近は、寛文十二年(1672)二月三日江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた所である。
 事件の発端は、寛文八年(1668)三月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり、刃傷に及び、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
 源八は、近縁の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文十二年(1672)二月三日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助の組屋敷付近に潜伏していた隼人らに、総勢四十二名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
 源八らは、井伊掃部頭へ自首したが、助命され伊豆大島に配流(はいる)となり六年後許されて全員井伊家ほかに召抱えられた。




鼠坂





こちらのMAPを見ると、載っている。




◆中根坂東公園



◆長泰寺




◆因縁諸霊供養塔

市谷亀ヶ岡八幡宮、裏手の細い路地を抜けたところにある。




◆市谷亀ヶ岡八幡宮

こちらは一度来ている。

2017/07/23
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170723/1501323849






市ヶ谷駅

JR中央・総武線市ヶ谷駅
こちらでゴール。


この日の散策ルートはほとんど坂ばっかり。
散歩する人を苦しめます(w
意外と閑静な住宅街が多かった。
市ヶ谷駅近くになるとDNP(大日本印刷)関係のビルがいっぱい建っていた。