24時間勤務アケで、江戸川橋から護国寺経由で新大塚まで散歩。
久しぶりに歩いたなぁ。
◆東京メトロ有楽町線江戸川橋駅
スタートの江戸川橋駅。
ここで降りたのは初めてだ。
トイレは改札の外にあるんだね・・・・。
ちょっと探し回っちゃった(w
◆華水橋
読み方は「はなみずばし」でいいと思うんだけど・・・・。
なんだかね(w
「……坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」(改撰江戸志)
この「大日堂、とは寛文年中(1661〜73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。
坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。
この一円は寺町の感のする所である。
この町に遊びくらして三年居き
寺の墓やぶ深くなりたり 折口信夫(筆名・釈超空1887-1953)
この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿(せきやど)藩主・久世大和守(くぜやまとのかみ)の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。
この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者 1892〜1981)やその父で外交官の堀口九万一(くまいち)(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。
足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫(きごう)は堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで「山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつゝ秋は散りけり」とある。
文学愛好者の発案による「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。
◆石川啄木初の上京下宿跡
盛岡中学校を卒業直前にして退学した啄木は、文学で身を立てるため、明治35年(1902)単身上京した。そして、中学の先輩で金田一京助と同級の細越夏村の旧小日向台町にあった下宿を訪ねた。明治35年11月1日のことである。
その翌日、近くの大館光(みつ)方に下宿先を移した。
啄木日記には「室は床の間つきの七畳。南と西に橡(えん)あり。眺望大に良し。」とある。
与謝野鉄幹・晶子らに会い、文学に燃焼した日々を過ごしたが、生活難と病苦のため翌年2月、帰郷せざるを得なかった。
続く。