2019/02/23 渋谷散歩 03 金王坂下歩道橋/渋谷川/恋文横丁/東京新誌社跡/与謝野晶子歌碑/道玄坂

渋谷駅周辺を散策。
坂が多いうえに道が斜めに交差しているので迷いまくる(w
渋谷は相変わらず苦手。




◆金王坂下歩道橋











渋谷川










◆恋文横丁



かつて、「これより入った奥に小さな三十六の店があった。・・・彼らは希望と、繁栄と、ロマンを求め、その小路を”恋文横丁”と名づけた・・・・(美美薬局店主筆
といった看板が掲げられていた。恋文横丁の名は、この地に恋文の代筆業を営む若者たちが集まっていたことに由来する。また、昭和二十八年十二月には、この地を舞台とする「恋文」(丹羽文雄原作、田中絹代監督、新東宝映画株式会社)が公開されている。
 行政書士は書類作成の代理などを業とする国家資格者であり、行政書士法制定六十五周年を経過した今、この碑を建て替え先人たちを偲び、寄贈する。









◆東京新詩社跡




 与謝野鉄幹は明治三十四年(1901年)麹町から渋谷に移り住み、晶子と結婚しました。東京新詩社の機関誌『明星』を12号から発行し、晶子も歌集『みだれ髪』を刊行しました。詩歌革新を目指して盛んに文学活動を行いましたが、明治37年に千駄ヶ谷に移るまでに、この近くに2度住まいを変えています。千駄ヶ谷に移り住んでから、東京新詩社は最盛期を迎え、晶子も歌集『恋衣』や『夢の華』などを刊行しましたが、新詩社の機関誌『明星』が100号で廃刊される事態となり、明治42年に神田駿河台に移りました。









与謝野晶子歌碑




 歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治三十五年(1902)四月に発行された東京新詩社の機関誌『明星』に収められています。
 晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。処女歌集の『みだれ髪』も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって、身心の負担は思いもよらず大きなものでした。
 歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。
 みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っているのです。
 なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。



 渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸へ運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近もひらけだした。近くに住んだ芥川竜之介柳田国男がここを通って通学したが、 坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思い出もある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことであろう。









道玄坂



 江戸時代以来、和田義盛 の子孫大和田太郎道玄 がこの坂 に出没して山賊野盗のように振る舞ったとの伝説や道玄庵という庵があったため、道玄坂を名づけられたとの説もありますが定かではありません。






用事(小遣い稼ぎ)を済ませつつ散歩。
渋谷周辺では本当に道に迷った(w
この後はJR渋谷駅から電車で家に帰って呑んだくれてしまったのでした(汗