2019/04/17 清瀬散歩 02 清瀬へ/清瀬金山緑地公園/金山橋/地蔵菩薩像/稲荷大明神/中里富士塚

清瀬金山緑地公園から東京都清瀬市になる。
柳瀬川が県境だと思っていたら、どうも微妙に違うらしい。



清瀬

のどかな風景が広がる。




入間から飛んだか、横田から飛んだか・・・・。




やはりのどかな風景が広がる・・・・。





清瀬金山緑地公園




















「武蔵野の風と光」がテーマとなっている。
本公園は、武蔵野の面影
を残す清瀬市の風土環境にふさわしい。
引き折々の変化をもたらし、野鳥の囀(さえず)る雑木林を吹き渡る風、梢に
輝く陽光。さらには小川が流れ、雲を映し、夕日に染まる池水は、
かつての武蔵野のイメージとして表現されたもので、市民の憩いの
場となり、生活に潤いを与えてくれる場となる。





 清瀬金山緑地公園は、「武蔵野の風と光」をテーマに、昭和61年に作られた広さ1.8ヘクタールの公園で、昭和63年度第4回都市公園等コンクールで「建設事務次官賞」を受賞しています。
 この園内には、ケヤキ、コナラ、ウツギなどの樹木やクマザサ、各種野草が植えられているほか、滝から落ちる水が小川となって園内中央部に広がる池に注ぎ込むあたりの湿地帯には、花菖蒲などが植えられています。
 また、池の中央の噴水は「柳」をデザインしたもので、独特な水の動きを見せています。





◆金山橋

下は「柳瀬川」




桜スポットだね!
来年は見に来たい!!










地蔵菩薩



地蔵菩薩

 平安時代以降極楽浄土の信仰が広まるにつれて、地蔵菩薩閻魔王本地仏として六道をめぐって人々を救い、極楽に行けるように力を貸してくれると広く信じられるようになりました。
 そして江戸時代に盛んになった民間信仰と結びつき、火災、盗難除けや病気平癒など人々の様々な願い事をかなえてくれる仏として信仰され、地蔵講なども営まれるようになりました。
 月の二十四日は地蔵の有縁日として、お供物を上げたりして親しまれていました。また地蔵は賽の河原で子供を庇護するというところから、子育、子安地蔵として信仰されています。

 右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)をもつこの地蔵は、中里村に念仏講を開いていた二十八名によって江戸時代宝暦五年九月吉日(1755年)に建立された地蔵菩薩で、左側面に法華経化城喩品第七から取った偈文(げぶん)「願わくば仏の説くところの功徳をもってあまねく一切に及ぼし、我等と衆生とみなともに仏道(最高の悟り)を成就したまえ」と刻まれており、地蔵信仰の盛んであったことをしのばせています。





稲荷大明神












◆中里富士塚

まさかの工事中で立ち入り禁止だった。




中里の富士塚

 丸嘉講武州田無組中里講社により、柳瀬川右岸の段丘縁辺地に築かれた。文政八年(1825)再築という伝承や、頂上の石祠に同年の銘があることなどから、文化文政年間(1804~1830)の築造と考えられる。明七7年(1874)に2m程かさ上げされ、周囲よりの高さは約9mである。
 北側の鳥居を潜ると登山道が九十九折りに続く。途中1合目から9合目までを記した小さな石柱がある。山頂には文政8年の石祠と、大日如来を刻む石碑が建つ。この石祠は富士山頂の「仙元大菩薩」の社を象ったもの。中腹には、富士山五合目に祀られる「小御嶽神社」の碑がある。少し下った先には、富士講が往路に参詣する「高尾山阿闍梨明王」の碑。その中間に、帰路で詣でる「道了大薩?」の碑が建つ。
 富士信仰に関する石造物を具備する一方、今日でも富士登山や火の花祭りなどの講行事が継続されている。また全山赤土で、一般の富士塚に見られる溶岩は一切使われていない。舟運に依存できない内陸地域の富士塚の、典型的な様式を示している。なお、講に関する中里丸嘉講関係資料が附として指定されている。初期の富士塚として、また江戸後期に武蔵野に進出した富士講の活動を知る上で重要である。





中里富士山

 中里富士山は、富士山を信仰する人々の集まりである富士講によって江戸時代文化年間頃築かれたといわれ、高さが約10m、東京都の有形民俗文化財に指定されています。
毎年9月1日には、ここで、東京都指定無形民俗文化財である中里の「火の花祭り」が行われます。
 この行事は、講中富士塚で経文を唱えたあと、円錐形の麦わらの山に火がつけられ、その火にあたり、灰を家に持ち帰って門口にまくと火災除けや魔除けになり、畑にまくと豊作になると伝えられているものです。









続く。