2020/04/19 大森散歩 08 大井海岸公園/大森海岸駅/大森海岸駅前歩道橋/鈴ヶ森刑場遺跡/大経寺/浜川神社

大森海岸駅前歩道橋からは第一京浜を北上。
鈴ヶ森刑場からは旧東海道を北上する。


◆大井海岸公園






大森貝塚(大井6-21)
 明治10年(1877) エドワード·S.モース博士により発見、調査された。 現在は遺跡庭園として整備され、 日本考古学発祥を記念する碑が建つ。国指定史跡。

大森貝塚遺跡庭園(大井6-21)
 大森貝塚ゆかりのモース博士の生誕地、 米国メイン州ポートランド市との姉妹都市提携を記念して作られた公園。」

鈴ヶ森刑場跡と大経寺(南大井2-5-6)
 慶安4年(1651) に江戸幕府が設けた刑場の跡。天一坊、八百屋お七など、 歌舞伎や講談に登場する人物もここで処刑されたという。

鹿嶋神社(大井6-18-36)
 大井村の鎮守として親しまれている。 境内の大タブノキやアカガシなどの木々が壮観。

来迎院(大井6 -18-8)
 安和2年(969)の創建。尊栄法印の開山。三代将軍徳川家光が鷹狩りの折に度々立寄って休息したことから、お茶屋寺とも呼ばれた。

自大井の水神社(南大井5-14-9)
 江戸時代から「柳の清水」 として知られ、 水不足に悩んだ大井村の人々が雨乞いを祈とうする信仰行事が明治時代まで続いた。区指定史跡。





大森海岸駅








大森海岸駅前歩道橋

下は第一京浜










◆鈴ヶ森刑場遺跡



 鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安四年 (1651)に開設された御仕置場の跡です 。大井村鈴ヶ森の刑場は、東海道に面し、規模は元禄八年(1695)実施の検地では間口四十間、奥行き九間であったとされます。 東海道 (現在は第一京浜)の拡幅等により旧態を留めていません。大経寺は御仕置場に隣接し処刑者の供養のために建てられた寺で、髭題目を刻んだ石碑は

  元禄一一年 (1698)
     の建立
 この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、白井権八八百屋お七白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされます。江戸の刑制史上重要な遺跡 です。


処刑された人を調べてみた。

丸橋忠弥 - Wikipedia
『慶安4年8月10日(1651年9月24日))は、江戸時代前期の武士(浪人)。慶安の変江戸幕府の転覆を図った。 』

天一坊改行 - Wikipedia
『元禄12年6月7日(1699年7月3日) - 享保14年4月21日(1729年5月18日))は、江戸時代中期の山伏。源氏坊 天一(げんじぼう てんいち)とも。将軍徳川吉宗の御落胤を称したが虚偽が発覚し処刑された。 』

平井権八 - Wikipedia
『1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本の武士である[1][2][3][4][5][6]。講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる』
来歴を見るとすごいね・・・・・。

八百屋お七 - Wikipedia
『寛文8年(1668年)? -天和3年3月28日(1683年4月24日)、生年・命日に関して諸説ある)は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。』

白子屋お熊 - Wikipedia
『元禄16年(1703年) - 享保12年2月25日(1727年4月16日))は、江戸日本橋新材木町の材木問屋「白子屋」の長女。父は店主白子屋庄三郎、母はつね、婿として又四郎を迎える。
享保11年10月17日(1726年11月10日)に発生した「白子屋事件」の計画犯の一人で、同年12月7日大岡忠相の判決が下り、翌年2月25日に市中引き回しの上獄門に処せられた』


お七の件しか知らなかったなあ。
もっと勉強します。











火炙台
八百屋お七を初め火炙の処刑者はこの石上で生きたまヽ焼き殺された
真ん中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ縛りつけて処刑されたのである




磔台
丸橋忠弥を初め罪人がこの台の上で処刑された
真中のた大余の角社が立てられその上部に縛りつけて刺殺したのてある




◆大経寺

鈴ヶ森遺跡は大経寺の境内ということになるそうだ。




◆浜川神社

門扉にカギがかけられているので、お参りすることができなかった。
google mapの口コミを見ても、お参りできた人は居ないらしい。





浜川神社文書
 浜川神社は、江戶時代・天明の頃に修験者・教光院了善が厄神大権現(やくじんだいごんげん)として祀ったことに始まる。明治維新後、
神社となり浜川神社と称した。厄神の信徒は上総・安房にも及び現在に至っている。
 浜川神社文書は、前身である厄神社(厄神大権現)および浜川神社に関する文書と証文類で構成されている。保存状態もよく、大井地区の歴史だけでなく、江戶時代から近代に至る神社史を知る上でも貴重な資料である。




続く。