2020/05/14 大崎散歩 07 東急目黒線ガード/ホテル雅叙園東京/太鼓橋/行人坂/大圓寺/目黒駅

まだまだ目黒川に沿って北西に進む。
太鼓橋からは行人坂をあがって目黒駅へ行き、ゴール。



東急目黒線ガード




◆ホテル雅叙園東京

中に「百段階段」という文化財があって行きたいのだが、なかなか機会がありません・・・。




椎の木/太鼓橋

右側に太鼓橋が写っている。



椎の木
椎の木はブナ科 の広葉 常緑樹で、目黒区の木として指定されている。椎の木は浮世絵師、歌川(安藤)広重(1797~1858)画の〈江戸名所百景ー目黒太鼓橋夕日の岡〉1857 (安政四)年中にも描かれている。水と緑に恵まれたここは、遠く富士の頂をのぞむ美しい自然の名勝として椎の木と共に親しまれてきた 。

太鼓橋
太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人達が資材を出し合って1764(宝暦14)年から6年の歳月を経て完成した。広重はこの太鼓橋を浮世絵に描いており、こうしたアーチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、目黒の欧風文化の第一号とさえいわれたが、1920(大正9)年9月1日に豪雨により石橋が濁流にのまれたため、1932(昭和7)年架設された。現在の橋は、目黒川流域の都市整備計画により1991(平成3)年1月に完成した。


お七の井戸



八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。
吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め明王院に入り、目黒不動浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。
明王院という寺院は、現在のホテル雅叙園東京エントランス付近から庭園に架け1880(明治3)年頃まであった。
この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことからお七の井戸」と言い伝えられている。



◆太鼓橋






遠くに御茶ノ水の「聖橋」みたいな橋が見えるね。






さきほどの聖橋みたいなところを拡大してみた。

↓のサイトで確認すると、こちら「目黒新橋」のようだ。
マップ:太鼓橋



ウチのサイト内で調べたら一度写真を撮っている。
忘れっぽくてイカンね・・・。
2017/02/19 part5 目黒競馬場跡/大鳥神社/目黒新橋/権之助坂 - ovanの社会科見学




聖橋↓

2018/04/14 撮影。






みっけ♪




ここから先は以前も来たことがある。
2017/02/19 part2 行人坂/大円寺 - ovanの社会科見学





◆行人坂

坂下。




坂途中。
大圓寺




坂途中。
坂右側にホリプロがある。
ここが本社ビルらしい。
ホリプロ - Wikipedia




目黒川架橋供養勢至菩薩石像




 小堂の中にある石造物は3段の台石を含め総高190cmで、一番上は蓮華座の上で合掌し、右膝を立てて座る勢至菩薩像です。小堂の前を通る行人坂を下りた先には目黒川がありますが、江戸時代中期の目黒川架橋について台座石の前面と両側面に銘文が刻まれています。
 銘文は宝永元(1704)年のもので、西運という僧が目黒不動尊浅草観音に毎日参詣し、往復の途中で人々から受けた寄進により、川の両岸に石壁を築き、雁歯橋(がんしきょう)を架けたということが書かれています。目黒川架橋の歴史を示す、貴重な文化財です。

行人坂
 寛永の頃、出羽 (山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。しだいに多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。





坂上





行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、1624(寛永年間)このあたりに巣食う、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人「大海法師」を勧請して、開山した。
その後不良のやからを一掃した功で、「大円寺」の寺号を与えられた。
当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。



富士見茶屋と夕日の丘

江戸時代、この辺には「富士見茶屋」があり、大勢の参詣客や旅人がここで一服、秀麗な富士の眺めを楽しんだ。
また、坂の周辺は夕日と紅葉が見事で、夕日の岡と呼ばれていた。




大圓寺大円寺



 この寺は「松林山大円寺」といいます。寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切りひらき、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりと伝えられています。
 本寺には、"生身の釈迦如来"と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)、木造「十一面観音立像」(区指定文化財)、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。
 明和9年2月(1772)、本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた「釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大円寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀三尊像」(区指定文化財)や八百やお七
の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。
 境内には「行人坂敷石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。
 江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。

大圓寺の指定文化財  
鎌倉時代(国重文)
・生身の釈迦如来立像(一躰)
・白銅菊花双雀鏡(一面)
・結緣交名断簡(三片)
◎江戶時代(都重文) 石佛群五百羅漢像(五二四躰)
◎江戶時代(区重文)
・行人坂敷石造道供養碑(一基)
阿弥陀三尊像(三躰)
・目黑川架橋供養勢至菩薩像(二躰)
◎藤原時代(区重文)
・十一面観音立像(一躰)
八百屋お七、吉三の墓碑
●江戸裏鬼門守護開運大黑天
●新東京百景指定(東京都指定)
文化財は国民の財産で世界の文化遺産です。 皆で守りましょう。



大円寺石仏群




 明和九年(1772)、江戸市中を焼く大火があり、火元と見られたのが大円寺であった。この火事は「行人坂の火事」と呼ばれ、明暦三年(1657)の振袖火事、文化三年(1806)の車町の火事と並び、江戸三大火事の一つに数えられている。「新編武蔵風土記稿」には、大円寺境内の五百羅漢は行人坂の火事で亡くなった人々を供養するために建立されたと記されている。
 大円寺境内の北東斜面に、520躯の石仏群が安置されている。左右に文殊菩薩普賢菩薩を配した釈迦三尊像十大弟子十六羅漢が囲み、背後に491基の羅漢像が並ぶ。造立年代は、五百羅漢の中に宝暦13年(1763)の刻銘もあるが、多くは釈迦如来の刻銘天明元年(1781)以降の造立と思われる。嘉永元年(1848)に大円寺が再興された時、これらの石仏もここに安置されたと考えられる。
 像高は、釈迦三尊像が147から55cm、十大弟子像が55~126cm、十六羅漢が95cm、五百羅漢像が37cm前後。判読できる銘文によると、行人坂の火事以外の供養も含まれているようである。また、広く勧進を募り、時間をかけて今の石仏群が作られたことも読み取れる。江戸災害史の貴重な資料である。



釈迦堂

次回の御開帳が5/21となっているね・・・。
行けるかな?




 本尊は、京都嵯峨の清涼寺に伝わる釈迦如来立像を模して作られた像です。原像である清涼寺の本堂(国宝)は、東大寺の僧が寛和2年(986)に中国から請来したもので、請来当初から摂関藤原兼家以下の朝野の尊崇を集め、やがて多くの模刻が作られました。
現在こうした清涼寺式の違例は各地に数多くありますが、その中でも大円寺の像は、嵯峨の原像に相似し、よくその趣を伝えています。両耳孔には水晶珠をはめ込み、頸際まできっちりとつけた衣には、同心円状の衣文を刻み、各衣紋に沿って截金線が入っているなど他の像に比べて全てが細かに模されています。
 昭和32年(1957)に行われた解体修理の際、胎内から白銅製の菊花双雀鏡、女性の髪、紙片、木札などが発見され、それらに書かれた陰刻や墨書から建久4年(1193)に制作されたとされます。
 原像に勝るとも劣らない巧みな刀技で、四肢、五体の均衡に至ってはより自然味を増した優品であるとともに、制作年代もはっきりした貴重な文化財です。



阿弥陀堂



木造阿弥陀三尊像
 中尊阿弥陀如来像は来迎印を結び、左足を垂下した半跏の姿、観音像は蓮台をもち左膝を立てた典型的な来迎形の阿弥陀三尊であるが中尊が半跏座の姿をとる例は珍しい三尊形式である。
 三尊とも江戸時代の典型的な作風を示し、江戸時代の仏像がいずれもこじんまりとしているのに対し気宇広大な特色を持っている。
 また両脇侍像蓮台の木札に明和7年(1770)大仏師桃水伊三郎等の銘があることも貴重である。




石塔群



行人坂敷石造道供養碑
 この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)キリーク(阿弥陀)サ(観音)サク(勢至)が刻まれています。
 下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊龍泉寺浅草観音浅草寺)に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。
 施主は西運で元禄16年(1703)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です。




鐘楼と観世音菩薩



八百屋お七と吉三(西運)

 江戸時代、本郷駒込町に住む八百屋の娘お七は、天和2年(1682)の火事の際、避難のためしばらくの間近くの円林寺に仮住まいしており、そのときに寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六才、吉三が一八才でした。
 しかし、短い避難生活のことやがて離れ離れになって、お七は吉三に会いたさゆえに乱心し、自宅に火を放ったのです。大事には至らなかったものの、当時は放火は火あぶりの大罪。お七は江戸中引き廻しの上、大井・鈴ヶ森の処刑場で火刑に処せられました。
 その後、恋人吉三は剃髪し、西運と名を改めて、お七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国巡礼を行脚しました。その後、江戸に戻った西運は、大円寺の坂下にあった明王院(現ホテル雅叙園東京)に阿弥陀仏三尊仏を祀り、身を寄せながら隔夜日参一万日という念仏行を始めました。
 浅草寺までの道のりを雨の日も雪の日も休むことなく、鉦をたたき念仏を唱えながら、一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げました。その夜、お七が夢枕に立って成仏したことを告げたのですが、そのお姿が今現在も阿弥陀堂に祀られているお七地蔵になります。
 西運は集まった浄財で行人坂の石畳を直し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、社会活動の数々を行いました。そのことを伝える当時の石碑があり、現在文化財指定となり、寺に伝えられています。




道祖神






山門




◆目黒駅

ゴールのJR目黒駅。




目黒不動坂みち散歩

目黒不動坂みち散歩は、目黒駅から武蔵小山駅までの約3.0kmのみちのりです。石造五百羅漢の大円寺江戸五色不動の一つである目黒不動尊そして林試の森を通ります。坂のある、寺と緑の散歩道です。

目黒
 目黒の名の由来については、諸説あり定かではありません。駒場、 駒沢などの地名がしめすように、奈良時代から平安時代にかけて、 たいへん広い範囲で、 官校、 私牧がおかれていたようです。 そしてこれらの救場の周りには管理のための畔道(馬畔)がつくられたといわれます。 これが村名になったというのが馬畔説です。 また関東最古の不動霊場といわれる日黒不動から名をどったとするのが、目黒不動説です。他には、「め」は窪地、「くろ」は嶺を示すとする地形説、放教された馬の毛の色に由来する説などがあります。江戸時代は住原部に属し、戸近郊農地として、また目黒不動の門前地として栄えました。



お不動さんから林試の森へ 歴史散策の径
目黒駅の高台から目黒川の谷へ下る権之助坂。 その左手に富士見の名所として知られた急勾配の行人坂がある。江戸の初め、「行人」と呼ばれる修験僧が坂の途 中にお堂を建て、修行に励んだそう。江戸の町民が、お不動さんかいわいの行楽地に行き 来した坂だ。大円寺大鳥神社、蟠竜寺⋯· 緑につつまれた寺社には、歴史を刻んだ文化 財が多い、延長33토の コース。ひとつひとつ の時を訪ねて、緑のオアシス林試の森公園ま で散策を楽しもう。






今回は最後の行人坂に苦しめられた(w
かなり急な勾配・・・。
同じコースを散策する人は居ないと思うが、逆にした方がいいね。