2020/09/22 赤坂散歩 01 御茶ノ水駅/乃木坂駅/乃木公園/乃木神社/乃木坂/乃木坂陸橋/国際医療福祉大学

24時間勤務アケで、乃木坂から赤坂経由で四ツ谷駅まで歩く。
その前に、乃木坂まで乗り継ぎしたお茶の水駅がすっかり様変わりしたので写真を撮っておいた。
この後どうなるんだろう・・・・。


御茶ノ水




2018/04/10 撮影。



ここでは乃木坂駅周辺を散策した後、細い路地を北へ進む。



乃木坂駅

スタートの東京メトロ千代田線乃木坂駅


近くにあった地図。






◆乃木公園





 この公園附近は、江戸時代の初期、青山常陸介忠成が家康の命をうけ、馬を乗り廻して賜わった土地で、力尽きて死んだ馬の塚を築き、駒留八幡といったという伝説がある。青山氏の敷地は現在の南北青山および赤坂7、8丁目を含む広大な地域であった。
 江戸時代末期このあたりは美濃郡上藩青山大膳亮(だいぜんのすけ)の邸地で、明治維新後この一帯は新坂町と呼ばれ、名士の邸宅街となった。
 陸軍大将乃木希典明治12年この地を買い求め、同35年新築をした。大将は大正元年9月明治天皇のあとを追い、夫人静子とともに自害して果てた。邸宅はその遺言により、東京市に寄付され、整備ののち公園として開園された。現在では、旧乃木邸を含めて区立公園として管理している。


旧乃木邸



旧乃木邸は一般公開の時に訪ねたことがある。
2019/11/02 01 「旧乃木邸」一般公開 - ovanの社会科見学







乃木神社


乃木神社之碑

中央乃木會理事陸軍大將従二位勲一等功二級一戸兵衛題額
大正元年九月十三日夜 明治天皇の霊轜宮城ヨリ青山練兵場内葬場殿ニ遷御アラセラル此夜八時乃木大將夫妻赤坂区新坂町自邸ニ於テ自刃ス蓋シ大將ハ 天皇ニ殉シ奉リ婦人ハ大將ニ殉セルナリ翌朝凶報傳ハルヤ中外擧ケテ其忠烈貞節ニ感動セサルハ莫カリキ予時ニ東京市長ノ職ニ在リ大將夫妻ノ忠誠ヲ不朽ニ傳ヘント欲シ有志ト謀リテ乃木會ヲ起シ大將邸宅ヲ保存シ且地域ヲ擴メ域内ニ社殿ヲ造營シ大將夫妻ノ霊ヲ祀ルノ議ヲ決ス事畏クモ 天聽ニ達シ内帑若干ヲ下シ賜フ東京市率先シテ資ヲ捐シ三井岩崎鈴木古河住友安田藤田森村澁澤木戸等諸家及全國篤志者相競ヒテ之ニ效フ大正十一年八月十日内務省技師大江新太郎氏ノ設計監督ノ下ニ起工シ翌年十一月一日本殿工先ツ成リ鎮座祭ヲ行フ残工事ハ資ノ集マルニ随ヒテ続行シ今ヤ予定ノ工事大略竣工ス東京市カ隣地ニ経營セル乃木公園亦完成シ繞ラスニ江戸城虎門杵形ノ巨石ヲ以テシ本社及乃木邸ト共ニ市内ノ名跡トナル本社ハ参拝者日ニ踵ヲ接シ祭日ニハ殊ニ雑踏シ神威年ト共ニ赫赫タルヲ覺ユ本會創立以来経營ノ責ニ任シタル関係ニ依リ茲ニ概要ヲ録シテ後ニ垂ルト云爾


赤坂王子稲荷神社



正松神社



 玉木文之進先生は 幕末維新に際し 多くの偉人傑士を輩出した長州萩の学者であり松下村塾の開祖であるり 吉田松陰先生は 玉木先生の甥にあたり 村塾を受継いで幾多の国士を養成された教育者であり 国事に仆れた烈士であります 乃木将軍は 松陰先生の弟弟子として玉木先生に薫陶せられ 又松陰先生を深く敬い 之が人格形成の基になったと拝察します 依て乃木神社戦災復興を機に 萩の松陰神社より二柱の御分霊を請受け 内に鎮祭した所縁の神社であります


雷神木



昭和47年9月12日午後7時、天空より閃光走り轟音凄まじき落雷あり。あはや本殿に多大な損害を被る処、この楠身代はりとなりその一撃を受け樹片境内に飛散するも本殿にひとつとして損すること無し。その後もこの楠、枯れる事なく亭々として葉を茂らせ活気旺盛の霊力を示したり。それよりこの楠を雷神が宿り悪事災難を取り除く雷神木と称したり。




教育の碑



明治天皇御製

教育
いさをある人を
  をしえの親にして
おほしたてなむ
  やまとなでしこ

 明治四十年一月に御祭神乃木将軍 が学習院院長に任命された頃に生徒2得の為に明治天皇より賜った御製であります 乃木将軍のような国家に勲功のある立派な人を学習院院長にして 大切な皇国 の未来を担う子弟の教育に常らせたいという明治天皇のお気持ちがこめられています
 この碑は当時の御歌所 所長 高崎正風 氏が謹書したものを刻んだものであります


楷樹(かいじゅ)



 林学博士・中村弥六氏の奉納植樹と伝われています。大正四年日本で最初に白沢保美博士が中国山東省曲阜県の孔子廟の子貢より種子を持ち帰り、育成された由緒正しい楷で、神田湯島聖堂岡山県閑谷学校の楷と同系統のものです。楷とは樹姿端正で一点一画が整っていることから書法の楷書の語源になっています。
 また、境内には、昭和天皇在位60年の記念樹の楷樹もあります。

 
竹添井々文学碑

竹添井々略歴
 竹添進一郎、光鴻号は井々、天保十三年(1842年)天草郡大矢野島に生る。出熊本下韡村の門に学び、時習館居寮生となる。幕末戊申の役には肥後藩の参謀。時習館の訓導助勤後、明治五年(1872年)から七年(1874年)まで玉名郡伊倉村に開塾。上京仕官、詩文の才を認められ朝鮮公使、東京帝大教授となる。棧雲峡雨日記、論語会箋、毛詩会箋、春秋左氏会箋等の著述多し。文学博士、大正六年(1917年)歿76歳墓は東京小石川の護国寺



乃木講誓詞之碑

乃木講偲代
陸軍大将従二位勲一等功二段大庭二郎書兼題額
聖訓力行 我身を浄め
質素勤儉 我身を治め
献身奉仕 國産を興し
熱慮断行 心義を践み
至減一貫 皇基を護らむ


鳥居1


鳥居2




◆乃木坂



由来
 乃木大将の殉死された大正元年九月以来幽霊座あた乃木坂に改名された。





◆乃木坂陸橋









国際医療福祉大学








続く。