横十間川を北上。
大島橋まできたら橋を渡って東へ移動。
明治通りにぶつかったら今度は通りを南下し新開橋を渡って小名木川の南側へ。
◆大島橋
下は横十間川。
釜屋跡
化学肥料創業記念碑
植物ガ栄養トスル肥料ノ成分ハ窒素燐酸加里ガ主デアッテ之ヲ主要素ト称ヘ窒素ハ主トシエ葉ヲ燐酸ハ果實ヲ加里ハ根幹ヲ形成スルモノデアリ肥料デハ古来動植物質ノ腐熟シタモノヲ多ク用イタガ近代科学ノ発達ハ化学的ニ窒素燐酸加里ノ各肥料ヲ多量且ツ廉価ニ生産スルコトニ成功シ是ニ依ツテ農作物等ノ収穫ハ画期的躍進ヲ見ルニ至ッタ 此ノ所一帯ハ實ニ我国化学肥料ノ先駆タル過燐酸石灰製造工業創始ノ地デアル
尊農之碑
先覚渋沢栄一益田孝等ノ諸氏 維新当初ニ於テ 我カ国運ノ躍進ハ必スヤ人口ノ激増ヲ来シ 食糧問題ハ實ニ邦家将来ノ緊要案件タルヘキヲ洞察シ農業ノ発達ト肥料ノ合理的施用トニ因リ之カ増収ヲ企図スヘキ堅キ決意ヲ為シ欧米ニ於ケル化学肥料ノ研鑽者タル高峰譲吉氏ノ協力ヲ得テ 明治二十年(1887)初メテ此ノ地ニ東京人造肥料会社ヲ設立シ過燐酸肥料ノ製造ヲ開始セリ是レ我国ニ於ケル化学肥料製造ノ嚆矢ナリ
本事業ハ官民ノ協力二因リテ漸次進展シ後更ニ空中窒素固定工業ノ勃興スルニ及ヒ農業生産ノ飛躍的増収ニ絶大ナル貢献ヲ為スニ至レリ今ヤ曠古ノ非常時局ニ際会セルモ能ク一億国民ノ食糧ヲ確保シ前線銃後些ノ憂ナキニ至リシハ蓋シ化学肥料ノ発達普及ニ負フモノ多シト謂フヘシ
同社ハ後ニ 大日本人造肥料株式会社ト改称シ此ノ地ハ釜屋堀工場 トナリシモ不幸大正十二年(1923)ノ関東大震災ニ壊滅シ爾来二十星霜ノ久シキ寂トシテ之ヲ顧ルモノナキヲ遺憾トシ茲ニ関係同志胥謀リ碑ヲ其ノ址ニ建テテ 由来ヲ刻シ永ク偉績ヲ顕彰スルト共ニ我国農業ノ興隆ヲ期シ以テ皇国ノ盛運ヲ奉頌ス
江東区立 釜屋堀公園
本園地タル釜屋堀ノ一帯ハ明治20年(1887)2月我國化学肥料製造ノ嚆矢タル東京人造肥料会社創業ノ地ニシテ近代農業ノ発達ニ多大ノ寄與セシ由緒アル處ナリ
茲ニ化学肥料事業ニ盡瘁セラルル有志相諮ラレ永ク此地ヲ記念スベク用地二百五十餘坪ヲ本都ニ寄附セラル今ヤ公園施設成リ開園ニ際シテ其由来ヲ刻シ寄贈者ノ芳志ヲ後世ニ傳フ
◆補助線44号架道橋
上は総武本線越中島支線。
こちらをくぐって線路の反対側(東側)へ。
◆進開橋
下は小名木川。
続く。