さらに大横川に沿って北上。
◆出村の桜屋敷
平蔵と左馬之助が青春を刻んだ高杉道場の北側には、田坂直右衛門の広大な屋敷があり、七十過ぎの当主が奉公人と孫娘のおふさと暮らしていました。ここから道を隔てて斜向い辺りで、春には庭の山桜の花片が、門弟が稽古に汗を流している道場へ舞い込んできたものでした。
時にそのおふさが、打ったばかりの蕎麦切と冷酒を下女に持たせ、祖父から中しつかったと道場に現れました。その初々しい乙女のような姿に、平蔵、左馬之助ならずともに顔を赤らめ、はにかみ師匠に郷撤されたものです。
おふさが日本橋の呉服問屋近江屋へ嫁ぐ日、横川を立派な嫁入り道具を載せた舟に囲まれ、白無垢姿でゆったりと行く様を道揚の門外から両名が万感の思いで見送る場面は心に残ります。
それから二十余年後の展開には拷然とさせられます
夕方になって釣り人が帰ろうとすると堀の中から「おいてけー」という声が聞こえてきます。周囲に人影はなく、空耳と思って立ち去ろうとすると、途中で必ず足がすくみ、釣った魚はいつの間にかいなくなってしまう。
本所藤代町の南側から両国橋の広小路に渡る駒止橋の下を流れる隅田川の入堀にはえていた「あし」は、双方に葉がでずに、片側だけしか葉が出ていないので「片葉のあし」と呼ばれ、不思議がられたという。
夜ふけて道を歩いていると、ちょうちんのあかりが見えるのでこれに向かって進んでいくとちょうちんのあかりはパッと消えてしまう。前方に現れ、いつまでたっても追いつくことができない。
稲穂がなびくころ、夜ごと、どこからともなく聞こえてくる太鼓の音。ついフラフラとつり出され、歩き疲れて家に帰り寝てしまう。
夜が明けてみると自分の家だと思ったのが野原で、たぬきにばかされたという訳です。
寒い冬の夜道に、毎晩蕎麦屋が店をはっていた。おかしなことにいつも灯はついていない。客が火をつけてやるのだが、ふっと消えてしまう。何度つけても消える。こうして帰った人の家には必ず凶事があるという。
本所三笠町に住む旗本屋敷に、夜ごと家鳴りがし、天井からひどく汚れた大足がニョッキリ出る。足を洗ってやるとおとなしく引込める。たまりかねた主人は同僚と屋敷を好感したところ、足は現れなくなったという。
人影もとだえ、しのつく雨のなか、割下水を夜回りが「火の用心」カチカチと拍子木を打つ。すると打ち終えたはずの拍子木なのに後から同じように繰り返してカチカチと不気味な音が人を送るように聞えるという。
◆横川橋
下は大横川。
このあたりを含む本所一帯は、江戸時代の明暦3年(1657)の大火(振袖火事)の後に、江戸市街を拡張するために開拓が進められ、元禄年間(1688~1703)頃になると、周辺に武家屋敷や寺院などが建てられるようになりました。室町時代に江戸を拠点とした武将太田道灌の墓がある法恩寺も、元禄2年(1689)に現在地(太平1丁目)に移転してきました。
横川1丁目遺跡の場所は、江戸時代の絵図によると、太田道灌の一族である大竹の抱屋敷があったとされています。また、明治時代には、ゴム製品材やエボナイト、赤Mで知られる軟式テニスボールなどを製造し、日本に於ける近代ゴム工業の礎となった三田土護謨製造合名会社がありました。
平成9年(1997)、東京都住宅供給公社の都民住宅建設工事にともない、旗本大竹の抱屋敷に関わる遺跡が確認され、墨田区教育委員会の指導の下に、横川一丁目遺跡調査会が発掘調査を実施しました。
調査の結果、本所開拓のときの盛土層や本所上水の水路とみられる大溝、太田家抱屋敷の庭園の池や建物、陶磁器や瓦、木製品などの江戸時代の遺構・遺物が発見されました。
また、明治時代のものとして「三田土」の墨書や焼印のある木札や板、ゴム製品が出土し、三田土護謨製造合名会社の存在を裏付けています。
このように、横川一丁目遺跡は、この場所の歴史を物語る貴重な埋蔵文化財の包蔵地となっています。
顧レバ大正十二年九月一日午前十一時五十八分突如トシテ関東一體ニ亙ル未曾有ノ激震ハ我ガ帝都五百年ノ文化ヲ一朝ニシテ烏有ニ帰セシメ三拾六万六千戸ノ家屋ヲ焼失シ五万八千餘人ノ市民ヲ犠牲トシ損害実ニ三拾七億円ヲ算セリ以テ其ノ惨害ノ激甚ナルヲ知ルベシ当横川橋畔ハ本区に於ケル第二ノ被服廠トシテ橋脚隧道ニ橋下ノ船中ニ老幼相扶ケ父子相擁シテ殃死セルモノ実ニ三千六百有餘人ニ及ヒ其ノ惨状言語ニ絶ス爾来星霜ヲ閲スルコト拾餘年官民一致復興ニ努力ヲ傾ケ今ヤ帝都ハ全世界第二ノ都市トシテ内外ニ誇称スルニ至ル是レ全ク災害犠牲者ノ賜ト謂フ可ナリ爰ニ於テ当地附近有志相謀リ特ニ総理大臣斉藤閣下ノ題字ヲ乞ヒ先ノ事蹟ヲ記念シ永ク殃死者ノ追悼ト市民ノ警醒ニ資センコトヲ希ヒ石ニ刻シ以テ後昆ニ伝フ矣
この門柱 は、元は、明治のたばこ商 、村井兄弟商会 の芝工場(現在の港区田町2丁目)の正面入口にあったものです。当時は、2mを超す立派な柱で、中間部分にはレンガ が積まれていました。上部の石にはたばこの葉 の浮き彫り が施され、明治期の近代工場の風格を伝える貴重な資料です。村井兄弟商会の工場は、明治37年(1904)の専売制度 導入以降、大蔵省専売局 の工場となり、昭和14年(1939)に火災 で焼失 するまで稼働していました。
後の建物は「たばこと塩の博物館」
2015/07/10 part1 たばこと塩の博物館 - ovanの社会科見学
2019/11/06 02 たばこと塩の博物館「ミニチュア展」 - ovanの社会科見学
渋谷にあった時にも行ったことがあるが、日記はmixiにあるみたい・・・。
ここにあった橋は、長さ 28.17m、幅13.37mの鋼橋 (鋼単純ワーレントラス橋 )で、関東大震災 の復興事業 により昭和4年に架けられました。
太平洋戦争 時には、金属供出 のため高欄が撤去されましたが、戦後 の昭和27年には、復旧されました。。
その後も定期的に補修を続けてきましたが、老朽化が進行したため架橋後 82年が経過した平成23年にその役目を終えて撤去し、新たに道路として整備しました。
永い間、親しまれた本橋の面影を慕い、橋名板 とトラス の一部を遺しでその歩みを記します。
◆業平団地の早咲き桜
続く。