2021/02/09 ときわ台散歩 07 板橋中央陸橋/長命寺/伝御東山板橋城跡碑案内板/上之根橋商店会/パブリバ八光/坂橋東新町氷川神社

一度環七へ出る。
だいぶジグザグになるが環七西側の細い路地を南西へ進む。



◆板橋中央陸橋

上も下も環七。
縦に走っている道路は川越街道。







長命寺



「新編武蔵風土記稿」に「開山、長栄、寛文十年(1670)十一月二十四日寂す」とあり、伝存する過去帳も承応元年(1652)から書き始められていることから、当寺は江戸時代の前期にはすでに創建されていたと考えられます。江戸時代には、板橋天祖神社(南常盤台2丁目)や東新町氷川神社東新町2丁目)をはじめ付近の神社の別当でもありました。
 明治時代には、豊島八十八ヶ所霊場の21番札所(注:50番)にもなり、また、板橋七福神の一つ福禄寿も祀られています。
 当寺周辺は、室町時代「お東山」にあったといわれる板橋城跡の伝承地の一つでもあります。
 

山門


門前







◆伝御東山板橋城跡碑案内板

上板橋小学校の敷地内にある。



 長命寺やこの上板橋小学校がのっている丘陵一帯を「御東山」と称していたことがありました。十二世紀初頭ころから、この辺りは豊島氏が支配しておりました。そのなかで、因幡守親盛(いなばのかみちかもり)という人が御東山というところに在思路ざいじょう)して、姓を板橋と改めたと江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」には記され、ここを板橋城としています。
 同書では城跡は不詳としていますが、豊島氏の後、この地を継いだ北条氏の家臣のなかに、大谷口(おおやぐち)、毛呂(けろ)(茂呂)、台(台宿か)など御東山に近い板橋姓の住人が記され、また地形をみてもここに城(砦)があったことが充分考えられます。
 我が街の歴史の重みを知り、郷土を愛する心を育むためにも、ここに板橋城があったという伝承を後世に伝えていきたいと思います。








◆上之根橋商店会

商店街♪









◆パブリバ八光

銭湯♪








◆坂橋東新町氷川神社



 ご祭神は須佐之男命です。
 当社は、旧上板橋村字上之根の地に鎮座して、古くから崇敬を集めてきました。創建は不明ですが、文政六年 (1823)の「上板橋村書上帳」に「一御除地五反四畝歩 当所鎮守氷川宮地但宮・拝殿有之候 一御除地中田壱反八畝拾歩同社免」とあるので、江戸時代にはすでに旧上板橋村の鎮守として当地に鎮座していたと考えられます。
 当社の氏子の範囲は、 旧上板橋村の南部に広がり、江古田駅前の浅間神社も当社の境外末社の一つです。なお浅間神社の境内にある富士塚は、昭和五十四年に国の重要有形民俗文化財に指定されています。
 当社の境内にある資料館は、この地域一帯が都市化により姿を変えていくなかで、往時の姿を保存するため、有志によって昭和四十六年 (1971)に建設されたものです。収蔵品には、衣食住関係(衣服・炊事用具等)や生業関係(農具・工具等)、社会生活関係(防災用具,・信仰関係等)等があり、江戸時代から昭和までで千点余に及んでいます。昭和五十九年度に一括して板橋区の指定有形民俗文化財となりました。


太宰府天満宮/榛名社



守護獣(狛犬)建立由緒之碑

氷川神社狛犬」作者北村西望翁は、この狛犬の謹製(昭和三十年・原型制作昭和十二年)にあたり、「未来永劫に境内を護り、朝夕参拝の方々までも守るものとして謹製した」とその真意を述べている。社殿に向かい右側が「牡戌(阿)」左側が「牝戌(吽)」で、姿は正に神獣・霊獣で在るも、天皇の守護獣像としてその誕生の起源をもつ。


稲荷社


楽殿


鳥居1


鳥居2



旧二の鳥居は昭和三十九年三月吉日、篠 統一郎氏により総欅材で建立された。しかし月日の経過により、虫食い、湿気等で足元に腐食が発生し、保全の為、何度も防腐処理・根次を繰り返したが改善されない為、解体撤去に至り、平成二十八年八月八日、竹内昭夫氏により、稲田御影石で新規建立した。
ここに先人の思いを受け継ぐ為、旧二の鳥居の姿を残す。


鳥居3









続く。