2021/11/17 亀戸散歩 04 粉もんや笑楽/友仁病院/亀戸天神/普門院/栗原橋/龍眼寺/江東天祖神社

蔵前橋通りを渡って亀戸天神へ。
その後は細い路地を北上したあと北十間川沿いを北西へ進む。




◆粉もんや笑楽



昭和看板が良くて撮った。













◆友仁病院












亀戸天神

もう何度も来ている神社。
2013/11/13 亀戸散策 - ovanの社会科見学

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気になる場所があったので来た。


亀井戸跡



おいぬ様




なんの碑なのかわからなかった。
おいぬ様のすぐ近くにあった。


菊祭り














◆普門院



 普門院は真言宗名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股 (隅田川、荒川、綾瀬川が落ち合うあたり、現,足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616) に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区) の地名の由来になったといわれています。
 江戸時代の地誌「絵本江戸土產」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。
 亀戸七福神のひとつ (毘沙門天) として親しまれています。


毘沙門堂


伊藤佐千夫の墓


石塔など


山門













◆栗原橋

下は横十間川
















◆龍眼寺




龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられています。
当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。
また。境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。

さいぶ薄くなっちゃってるね・・・。



 應永二年(1396)平安末期鎌倉時代の作(作者不明)閑山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山ズの修行を終え婦困の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩夢枕に現われ「汝の守るべま観世音菩薩と村の守護神の
御神体が~の床下に在る」とのお告げにより授か!、至心に祈願した、当時村には疫病が流行L了いたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳原寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とL、厄除.眼病平癒の観音様として現在でも信を集めている。
 その後現在の「龍眼寺」(時代不明)と改められた。
 御神体天祖神社とし7祀ふれた。本堂は夢殿を模したハ角堂ごハ聖(正)堂という、ハ聖(4)道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活 態度のことである。
一、正見 正しい見解  二、正しい思い 三、正語 正しいことば 四、正業 正しい行動 五、正命 正しい生活 六、正精進 正しい努力・務め 七、正念 正しい信念気づかい 八、正しい精神統一


地蔵堂


布袋堂



聖観音菩薩立像
 聖観音菩薩立像は龍眼寺の本尊です。像高は104cmで、一木から頭。体を木取りした後、千割れを防ぐためにそれぞれを前後に割り、内側をくり技いて再び接合した割矧(わりはぎ)造りです。頭部は耳後ろ で前後の材を知ぎ合わせ、胴体に差し込まれています。
 本像は頭部に宝讐を結い、左手は腎を曲げて駒前で蓮華をとり、右手は軽く骨を曲げて下げ、蓮華座上に腰をひねって立っています。像容は顔がまるく穏やかな表情がうかがえ、者衣は浅い彫りのなだらかな起伏によって表現されており、ゆったりとしています。
 本像は江東区 にとっては数少ない平安時代末期から鎌食時代初期の作と考えられ、たいへん貴重です。

庚申塔 万治二年在銘
 庚申塔庚申信仰という民間信仰に基づいて建てられたものです。庚申信仰とは、人の体内には三尸という虫が棲んており、六十日ごとにめくってくら庚申の夜、人々が眠っていら間に体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪と訴えらので寿命を縮めらと健康 と長寿を願うというものてす。
 本庚申塔は万治二年(一六五九)の銘をもち、庚申塔の中でも比較的早い段階に属し、区内では最古のものです。正面上部に三つの種子が刻主れ、その下に三猿(見ざら.言わざら、聞かざら)が並んでいます。銘文は三猿の下にあり、姓を持っ+組の夫婦が現世と来世の二世安を願って奉納したことが分かります。
 龍眼寺は、江戸時代の中ごろにたくさんの萩が植えられたことから萩寺の名で親しまれ、萩の李節には多くの人々で賑わいました。このあたりは江戸時代には柳島村に含まれ、庚申塔が建てられた万治二年は、柳島村の成立した初期にあたります。代々柳島村の村役人をつとめた大沢八郎右衛門と同じ姓を持つ人名が刻銘に見られらことから、奉納者は柳島村の草分わけ的な存在であった と考えられます。また、女性が加わっていることもこの時期の庚申塔としては珍しく、大きな特徴といえます。


供養碑(句碑)

ゆきし子は 永劫老いず 楠若葉
一亭


森総彦句碑

青梅や 小さき息を 大切に
総彦


芭蕉 句碑

濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩
芭蕉


落合直文の和歌

萩寺の萩おもしろし 露の身の おくつきところ こことさだめむ
直文


千載庵仲成歌碑

聞しより来て見や □野の染付は いふもさらなり 萩のにしき手よ川めの  
千載庵仲成


石田波郷石塚友二句碑

槇(まき)の空 秋押し移り ゐたりけり  
波郷

たかむなの 疾迅(じんしつ)わが背 越す日かな
友二


池月一陽子 句碑

遍照(へんじょう)や 萩三百の 刈株も  
一陽子


百寿 句碑

春盛る梅のうしろに□(はぎ)の花  
百寿

※□は読めなかった。


螺舎一堂 句碑

月や秋 あきや夜にして 十五日  
螺舎一堂


夢佛庵くに□句碑

夏痩を 驚く秋の 寝覚哉    
夢佛庵くに□

※□は読めなかった。


冬嶺・市町 句碑

ひと色を 千々の錦や 萩見寺  
冬嶺

露の世に こぼさぬ露や 萩の上  
市町


芭蕉 句碑

濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩
芭蕉


萩寺史跡 大納言家長郷の和歌 大納言家長郷和歌

ききしより 見る目ぞまさる この寺の 庭に散りしく 萩の錦は  
家長郷

つき見とも 見えず露あり 庭の萩  
其角


春明法眼之碑


庚申塔


「碑」

何の碑なのかはわからなかった。


山門













◆江東天祖神社



 天祖神社は、社伝によれば推古天皇の治世(593~628)の創建で、その後、 養退していたのを応永10年(1403) に復興したと伝えられています。
 天正年間(1573~91) に変病が流行し、 この時織田信長の便者が参向して流摘馬を献じたところ、 疫病は治まったと言われています。今日では子供の健やかな成長を祈って、 毎年9月16日に子供歩射が行われています。
 亀戸七指神のひとつ (福標寿)として親しまれています。


太郎稲荷神社



福禄寿



道祖神


奉安殿


道祖神


鳥居1


鳥居2













続く。