まだまだ西武新宿線下落合駅北東エリアの勾配がたくさんある場所を散策。
坂上。
西坂の名は、江戸時代後期の絵図に認められる(堀江家文書 「下落合村絵図」)。
『豊多摩郡誌』には「西坂、新宿道、字本村と字不動谷との間にあり」とある。
かつて坂上にあった徳川男爵邸の牡丹園は、盛時に一般公開され、落合の名所の一つになっていた。
◆落合秋艸堂跡(會津八一旧居跡)
歌人・書人・美術史家會津八一(1881~1956) が、 この地にあった市島謙吉(早稲田大学初代図書館長)の広大な別荘を借り受け、 大正十一年(1922) 八月から昭和十年(1935)七月に目白文化村へ転居するまでの十三年間を過ごした「落合秋艸堂」の跡である。
八一は新潟市に生まれ、東京専門学校(現早稲田大学)で学ぶ。卒業後は帰郷するが、坪内逍遙により早稲田中学校の英語教員に招かれ上京、教員生活と並行して奈良美術の研究を行った。また、歌人として「自註鹿鳴集』等を発表、書人としては新鮮な「かな書」で自作の歌をつづった。
落合秋艸堂には洋画家の曾宮一念・鶴田吾郎、版画家の織田一磨、歌人の吉野秀雄 窪田章一郎らが出入りし、 芸術家や文学者の交流の場となった。この頃の八一は、奈良美術研究会の設立、第一歌集『南京新唱』の刊行、早稲田大学教授への就任等、多彩な生活を送った時期であった。 なお、この市島謙吉の別荘は、地理学者吉田東伍が晩年を過ごした場所でもある。
◆霞坂
坂上。
明治時代末に開かれた坂で、『豊多摩郡誌』には「大字下落合里俗中井より小学校前へ開穿したる新坂なり」とある。この坂下は一面の水田だったので、春がすみの立つ、のどかな田園風景が美しかったという。
◆霞坂歩道橋
下は新目白通り。
坂上。
『豊多摩郡誌』によれば「市郎兵衛坂 中井道、字不動谷と前谷戸との間にあり」と書かれている。坂名の由来についてははっきりしない。この坂にゆかりのある人名をとったものと思われる。
◆聖母病院
続く。