前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/11/02/200000
◆小泉八雲旧居跡
この地は、小説家・随筆家・日本研究家の小泉八雲(1850~1904)が、明治二十九年(1896)~三十五年(1902)まで住んでいたところである。
八雲は、本名をラフカディオ・ハーンといい、ギリシャのレフカダ島でアイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれた。アメリカで新聞記者等の職につくが、日本に魅せられて明治二十三年(1890) 来日、島根県の松江中学で英語を教え、やがて小泉セツと結婚して日本に帰化し、小泉八雲と改名した。八雲は明治二十九年に帝国大学の講師に招かれ上京し、この地に居を構えた。
彼の作品『異国情趣と回顧』にみられるように、隣接する自証院(瘤寺)の風致をこよなく愛し、緑深い境内をよく散歩していたが、しだいに開発により自然が失われていくのに心を痛め、明治三十五年三月、大久保村大字西大久保(新宿区大久保一丁目一番一七号付近)に転居し、そこで亡くなった。
「小泉八雲舊居跡」の碑は、小泉八雲生誕百年を記念して昭和二十五年(1950)に有志の手により建立されたものである。英文はイギリスの詩人・文芸評論家エドマンド・ブランデンによるものである。
この道路は、昭和十九年七月に都道と認定されたもので、坂名がついたのもきわめて新しい。その時の東京都告示には「牛込区市ヶ谷富久町及四谷区四谷四丁目、花園町地内に於て (中略)市道の路線を認定し之が区域を決定し其の供用を開始す」とある。
坂名の安保は、この地に男爵安保清種海軍大将が住 んでいたことに由来する。
◆サウスタワー
かなり変わった建物だったので撮ってみた。
調べたけどオフィス賃貸のページしか見当たらない・・・・。
むかし、新宿は武蔵野の原野で人家もありませんでした。 江戸幕府が開かれると、 白壁の材料となる石灰の輸送が盛んになり、 それを運ぶ成木街道 (青梅街道)と甲州街道の接点の地は次第に人馬の往来が増え、 内藤新宿という町並みが形成されました。 しかし内藤新宿の北に位置するこの辺りは、 宿場のにぎわいとは無縁の静かなところでした。
明治・大正の頃この地には牧場もあり、緑豊かな素晴らしい環境でしたいまは、 この地が緑豊かな 「まきば」 であったことも想像できないくらい“にぎわい” あるまちかどを見せています。
装幀家・美術評論家青山二郎 (1901~1979) が昭和8年~17年頃までの約8年間を過ごしたアパートの跡。 同じ頃に評論家小林秀雄や詩人中原中也も居住した。 青山の部屋には、ほかに三好達治・大岡昇平 河上徹太郎・永井龍男らも集い、通称「青山学院」と呼ばれた文芸サロンとなっていた。
google mapのマークは上の写真のところ辺り。
WEBでしらべたのだが、信頼できる詳しい情報が得られなかった・・・・。