2023/03/29 東小金井・武蔵小金井散歩 06 秋葉神社/行幸松と行幸松の碑/水車跡/貫井橋/関野用水の痕跡/小金井分水

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/03/29/160000




秋葉神社







行幸松と行幸松の碑



 この松は、明治十六年四月二十三日、明治天皇がおいでになられ、ここでご観桜なされたことを記念して、村人がお席跡に植樹したものである。
 その由来を刻して建てられたのがこの碑である。
 なおここには、
  英照皇太后
  昭憲皇太后
  大正天皇(皇太子の時)
がおいでになっている。



 明治16年 (1883) 4月23日明治天皇が御乗馬で、 3人の親王とともに、 小金井堤に観桜においでになられました。 この名誉を後世に伝えるため、 地元鈴木新田の有志が御座所跡に植えたのが行幸の松です。
 19年後の明治35年(1902) この松が見事に成長したので、 海岸寺の住職玄格(げんかく)が地元有志とはかって、 この松の由来を記した記念碑を松の傍に建立しました。
 なお、 行幸の翌年には英照皇太后、 昭憲皇后が来られて小金井橋際の柏屋で、碑建立の翌年には皇太子時代の大正天皇が来られて海岸寺境内の野立所で、 それぞれ観桜されています。





◆水車跡

下は砂川(深大寺)用水。





 かつて小金井市内には玉川上水の分水を利用した水車が数多くありました。 水車は麦や米の製粉・精米になくてはならないものでした。
 この水車は、島崎水車と呼ばれ、砂川(深大寺)用水を利用したもので、廻堀と呼ばれる水吐(はき)用の補助水路がありました。
 明治十八年(一八八五)頃には、つき臼十二柄、万力碓二台を動かしており、大正八年(一九一九)頃からは、エボナイトの原料の粉砕等も行っていました。





貫井

下は玉川上水








◆関野用水の痕跡

下は関野用水。
橋名は確認できなかった。





享保17年 (1732) に玉川上水から取り入れた用水で、 関野新田 (現小金井市) など八新田の飲料水 (生活用水)として使われました。
小平市域では、廻り田新田と鈴木新田がこの用水を利用していました。 ここは、その関野用水の痕跡が残る貴重な場所です。





◆小金井分水

下は砂川(深大寺)用水。
橋名は確認できなかった。





 承応三年(一六五四)、江戸の水道として玉川上水が開設されると上水沿岸の村々は飲み水や田用水とするため幕府に分水を願い出ました。この小金井分水は元禄年間(一六八八~一七〇四)頃許可され、八寸四方(約二十四cm)の樋口で玉川上水から水を取り入れ、山王窪(山王稲穂神社北側)の築麺を通り、小金井村方面に通水していました。
 明治三年(一八七〇)、玉川上水の通船(明治五年廃止)に支障があるなどの理由から、砂川(深大寺)用水一筋に統一され、小金井分水はこの水門で分岐するようになりました。
 分水は飲料水や灌漑用水、水車などに利用され、新田開発に大きな役割を果たしてきましたが、昭和三十年代になると、都市化に伴いその役割を終えました。



すぐ脇にあった小さな祠。





続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/03/29/170000