2023/02/06 境水衛所・玉川上水の碑




◆境水衛所




水衛所(水番所)とは
 水衛所とは、江戸市中への水を確保するため、水番人と呼ばれる人が常駐していた場所です。 水番人は、 玉川上水に流れる水量の確認や周辺の巡回、 流れてくる落ち葉の掃除などを行っていました。 水衛所は、江戸時代には奉
行の支配下におかれ、「水番所」と呼ばれていました。

境水衛所について
 境水衛所は、明治維新後、東京市水道部(現在の東京都水道局)が管理することになったことから、 明治27年に水番所を水衛所と名前を変え、引き続き職員(水衛) が常駐し、玉川上水の点検や清掃などを行っていました。その後、淀橋浄水場の廃止に伴い玉川上水への通水を停止したことから、境水衛所は昭和55年3月に廃止されました。 水道局では、 史跡である玉川上水をより身近に感じていただくため、境水衛所跡地を散策路として、 平成24年度に整備しました。



国指定史跡 玉川上水

江戸・東京の水道に果たした役割
 玉川上水は、 羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で承応3 (1654)年に完成しました。 これにより、 多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給されることとなり、江戸が大きく発展することができました。
その後、明治31 (1898)年に完成した淀橋浄水場 (今の新宿区) への水路として、昭和40(1965) 年に同浄水場が廃止されるまで、利用されていました。
 現在も羽村取水口から小平監視所までは、現役の水道用の水路として、都民の生活を支えています。

貴重な土木施設・遺構としての歴史的価値
 玉川上水は、約43kmの区間を約92mの標高差 (100mでわずか約21cmの高低差)を利用して、水を流すように設計された長大な土木施設遺構です。
 特に、小平監視所から浅間橋までの中流部には、開削当時の素掘りの水路・法面(のりめん) が多く残され、往時の姿を今日に伝えています。
 玉川上水は、近世の水利技術を知る上で重要な土木施設遺構であることから、 平成15(2003)年8月、 開渠 (かいきょ) 区間約30kmが国の史跡に指定されました。

玉川上水国木田独歩
 玉川上水は多くの文人に愛され、各地に文学碑やゆかりの場所が残っています。
 明治期の小説家・詩人である国木田独歩もその一人です。
 写真は、 現在地から約600mほど下流の桜橋付近にある国木田独歩の石碑です。
 石碑には、代表作である「武蔵野」の第六章の書き出しが刻まれており、独歩が玉川上水付近を散策した様子をうかがい知ることができます。






◆史跡玉川上水の碑



清流の復活 ー玉川上水

 玉川上水は江戸時代の承応2年 (1653) 年、人口が急増した江戸の飲料水確保のために作られた水路です。
 この上水は、江戸市中への飲料水の供給という目的以外に、 武蔵野台地の各地に分水されて飲料水・かんがい用水・水車の動力などに利用され、 武蔵野の発展に大きな役割を果たしました。 水路は明治時代以降も淀橋浄水場 (新宿区) への導水路として使われていましたが、 新宿副都心計画による淀橋浄水場の廃止により、昭和40(1965)年以降、 小平監視所より下流は水の流れが途絶えました。
 その後、多摩川上流水再生センターで高度処理された再生水を利用した東京都の 「清流復活事業」によって、昭和61(1986)年8月から、玉川上水小平監視所より下流側に再び清流がよみがえりました。
 
 玉川上水は、高い歴史的価値を持ち自然豊かな憩いの空間であることから、東京における自然の保護と回復に関する条例に基づき「玉川上水歴史環境保全地域」に指定されています (羽村取水口から四ツ谷大木戸までの区間のうち開渠区間)。 玉川上水歴史環境保全地域では、貴重な植物を採る、 他の地域の生物を放す 植物を植えるなどの行為はしないよう、 水と緑の豊かな環境を大切にしましょう。






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