2023/10/17 三鷹・吉祥寺散歩 02 吉普力校舎站碑/みたか観光案内所/玉川上水史跡/山崎富栄旧下宿先(野川家)跡/小料理屋「千草」跡/太宰碑・太宰治入水自殺の碑

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/10/17/210000




◆吉普力校舎站碑

現地にそのような碑は見当たらなかった。
WEBで検索しても何も出てこないので、ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。



google mapのマークは上の写真のところ辺り。




◆みたか観光案内所




玉川上水史跡


国指定史跡 玉川上水

江戸・東京の水道に果たした役割
 玉川上水は、 羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応3 (1654)年に完成しました。これにより、 多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給されることとなり、江戸が大きく発展することができました。
 その後、明治31 (1898)年に完成した淀橋浄水場 (今の新宿区) への水路として、昭和40 (1965) 年に同浄水場が廃止されるまで、利用されていました。
 現在も羽村取水口から小平監視所までは、現役の水道用の水路として、都民の生活を支えています。

貴重な土木施設・遺構としての歴史的価値
 玉川上水は、 約43kmの区間を約92mの標高差 ( 100mでわずか約21cmの高低差)を利用して、水を流すように設計された長大な土木施設・遺構です。
 特に、 小平監視所から浅間橋までの中流部には、開削当時の素掘りの水路・法面(のりめん)が多く残され、往時の姿を今日に伝えています。
 玉川上水は、近世の水利技術を知る上で重要な土木施設遺構であることから、平成15(2003)年8月、開渠 (かいきょ) 区間約30kmが国の史跡に指定されました。

玉川上水太宰治
 玉川上水は、 数多くの文人に親しまれてきました。
 昭和14 ( 1939) 年から同23(1948)年まで三鷹に暮らし、 「走れメロス」 や 「東京八景」などの名作を発表した太宰治もその一人です。
 付近には、 太宰の旧居跡など、 ゆかりのある場所が多数残っています。
 また、当時の玉川上水は、 現在に比べ、水が豊富に流れていたことが写真からもうかがえます。

昭和61(1986)年からは、 東京都の清流復活事業により、 小平監視所から浅間橋までの区間に下水高度処理水が流され、水辺空間が復活しています。
玉川上水に関する情報は http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/ でご覧いただけます



 玉川上水は承応2年(1653年)に当時の江戸市中に飲料水を送るために43kmにわたって開削された水路です。
 明治初期には物資を輸送する為の通船があり、この近くにも船着場があったとも伝えられていますが、衛生上の理由などから2年間で廃止されたといわれています。
 三鷹橋は昭和32年(1957年)6月に架けられ、構造材の一部に鉄道の レールを活用していましたが駅前広場の整備に伴い 平成17年(2005年)3月に旧三鷹橋の親柱、高欄のデザインを活かして架け替えられたものです。
 ここに旧三鷹橋の一部を保存し架け替えの記念といたします。






◆山崎富栄旧下宿先(野川家)跡



 山崎富栄と親しくなった一九四七 (昭和二二)年九月頃から、彼女が下宿していた野川家の二階北側の部屋も仕事場にしていました。
 太宰最後の日、一九四八(昭和二三)年六月一三日に、「グッド・バイ」(未完絶筆)などを残し、ここから二人で玉川上水へ向かいます。




◆小料理屋「千草」跡



太宰治ゆかりの地 小料理屋「千草」 跡
この場所は、作家・太宰治が昭和22年7月より2階を仕事部屋として使っていた小料理屋「千草」の跡地です。




◆太宰碑・太宰治入水自殺の碑



四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。・・・・・・
太宰治「乞食学生」より
一九四八年(昭和二十三年)六月太宰治は近くの玉川上水で自らその三十九年の生涯を終えた。




続く。
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