2023/04/19 玉川上水緑道(上北沢村分水口跡)




玉川上水

 玉川上水は、多摩川の水を江戸市中に供給するため、承応二(一六五三)年、庄右衛門・清右衛門兄弟(後の玉川兄弟)が江戸幕府から下命され開削した上水路です。
 西多摩郡羽村 (羽村市)から四谷大木戸(新宿区内藤町)まで約四十三キロメートルを開水路で導水し、そこから先は石管や木管によって江戸市内に給水しました。杉並区内の流れは、牟礼橋からだいたばし代田橋に至る約六キロメートルです。工事はわずか一年有余というおどろくべき早さで完成しました。江戸市内への都市生活用水の供給という本来の目的を果たす以外に、水の乏しかった武蔵野台地の村々に分水することで、飲料水・灌漑用水・水車の動力として新田開発をうながし、武蔵野台地の原野を畑作地帯へと変化させました。
 玉川上水の分水口の数は、『上水記』によると、最古の野火止用水をはじめ最盛期には総数三十三ヵ所にものぼり、杉並区内には、下高井戸村分水・烏山村分水・上北沢村分水の取水口がありました。
この説明板の前方に見えるのが烏山村分水口跡で、上北沢村分水口跡(現在地より下流へ約四十メートル) とともに貴重な遺構です。 このうち上北沢村分水には途中に三左衛門水車が設置され、近郷近在の人々に親しまれ、「車堀」と呼ばれました。
 江戸の人々の暮らしを支えた玉川上水は、明治三十一(一八九八)年、東京に近代水道が完成したため、同三十四(一九〇一)年に廃止されましたが、水路は大部分がそのまま淀橋浄水場への導水路として使用されていました。新宿副都心計画にともない、昭和四十(一九六五)年に淀橋浄水場が廃止されると、流路はさらに短縮され、現在では小平監視所 (小平市中島町)から上流域のみを水道導水路とし、中流域は東京都の清流復活事業により、水再生センターの高度処理水が導水されています。
 玉川上水は、平成十五(二〇〇三)年八月、江戸・東京の発展を支えた歴史的価値を有する土木施設・遺構として、国の史跡に指定されました。
 説明板の右手にある「岩崎橋」は、明治の中頃まで通称「庄ちゃん橋」と呼ばれ、農作業用に使用されていました。その後「樋口橋」と名を変えますが、昭和十四(一九三九)年、現在の鳥山に工場を建設した「岩崎通信機株式会社」の名をとって、現在に至っています。




 ここは東京における自然の保護と回復に関する条例に基づいて指定された王川上水歴史環境保全地域です。
 この由緒ある歴史的遺産と武蔵野の自然を地域の方々とともに守り育てることとしています。 ごみを捨てたり、水路を傷めたりしないようご協力ください。






◆北沢村分水口跡

現地には説明版など見当たらなかった。

参考
世田谷の川探検隊




位置関係