2022/01/09 休日お出かけパスの旅 04 恋ヶ窪熊野神社/恋ヶ窪村分水/西恋ヶ窪歩道橋/恋ヶ窪駅/国分寺駅

恋ヶ窪を散策後、西武国分寺線国分寺へ。
ものすごーく駅前が変わったけど、これで終わりかな?





◆恋ヶ窪熊野神社

小さい時も含めて何度か来ている。

2020/03/25 02 恋ヶ窪散歩 02 新府中街道/とんとんラーメン/西恋ヶ窪緑地/第二西の台ガード/坂本稲荷神社/恋ヶ窪熊野神社/恋ヶ窪用水 - ovanの社会科見学

2021/03/25 サクラ2021 02 恋ヶ窪駅前/すぎのこ公園/内藤神社/恋ヶ窪熊野神社/ファンフル/国分寺駅前 - ovanの社会科見学













◆恋ヶ窪村分水

一度来たことがある。
ovanrei.hatenablog.com



 江戸時代の初め、武蔵野台地は地下水位が低いことから人はほとんど住めない環境でした。しかし、承応3(1654) 年頃に玉川上水ができて分水が引かれると各地に新田村が誕生し、飲料水や生活用水、田用水として水が使われました。
 『上水記』によれば玉川上水の分水で一番古いのは野火止用水で、それに次いで「明暦3 (1657)年願済(ねがいずみ)」と記された国分寺分水・砂川分水・小川分水が出来ました。このうち国分寺分水は「国分寺村外二ヶ村(そとにかむら)組合分水」とも呼ばれ、途中で3本に枝分かれして国分寺村・恋ヶ窪村と、今の小金井市に含まれる貫井(ぬくい)村が水を田に引くために利用しました。
 分水口は小川新田(西武国分寺線鷹の台駅」南方)にあり、野川に合流する流末まで一里半 (約6 km)の長さで、水の利用料は一石五斗のお米、後にはお金で納めました。その後、明治3(1870)年に玉川上水の分水口が統合されると、今の砂川用水から分岐して水を引くようになりました。
 この緑地内の恋ヶ窪村分水路は、堀幅が上端部で約6~9m、堀底で約50cm、深さは約5mの規模で、堀底は北から南に向って低く傾斜しています。玉川上水の分水にしては規模がひときわ大きな堀ですが、それは分水口から南方の恋ヶ窪村まで水を流すのに、さんや谷と恋ヶ窪谷と呼ばれる2つの谷に挟まれた、この付近一帯の小高い地形に水路を通すためと考えられます。
 また、用水路の西側は中世の鎌倉街道を利用した道で、江戸時代には川越街道と呼ばれ、昭和 19 (1944) 年頃に現在の府中街道が整備されるまで、恋ヶ窪地域の主な幹線道路でした。恋ヶ窪村分水は、昭和 40 (1965) 年代初頭まで田用水として使われましたが、その後は大部分が暗渠となり姿を消しました。
 緑地内に残る恋ヶ窪村分水は、玉川上水の分水のなかでも規模が大きな堀で、後世に補修された形跡も無く、明暦3年当時の素掘りの形状を留めていることから、江戸時代の貴重な土木遺産として、開削後360年目にあたる平成 29 (2017)年に市の史跡として指定されました。














◆西恋ヶ窪歩道橋

下は府中会堂。
すぐ隣が西武国分寺線の踏切。
















◆恋ヶ窪駅




その他写真
20220109 21 恋ヶ窪 - ovanrei's fotolife












国分寺駅
















たまに恋ヶ窪には来たくなってしまう。
長い事住んでいたからなあ・・・・。