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「牟礼」について
「牟礼」 について
牟礼村に伝わる古文書 「三鷹牟礼高橋家文書」には、都内でも珍しい、 江戸時代初期の寛永年間(1624~1644) の検地帳が残っています。 また牟礼 (無連) 村の名は、 近世以前の戦国時代にまとめられた、『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』 にも記載されており、三鷹の中でも最も古くから続いている村のひとつです。
江戸時代後期 (1804~1829年頃)に編纂された地誌である 『新編武蔵国風土記稿』によると、その頃の牟礼村には、 民家が150軒あると記載されています。 牟礼村の中心には、 小金井往還 (現在の連雀通り) と人見街道があり、当時の集落はこの街道沿いにありました。
牟礼田んぼ
牟礼村は、玉川上水の開通した承応2(1653) 年以前から存在していますが、 より安定した農業用水を補給する目的で分水されたのが、 玉川上水から取水した牟礼分水です。 牟礼分水は、牟礼村1ケ村のための用水として、江戸幕府から延享2 (1745) 年に許可されています。 村の中を三筋に分かれて流れ、明治10(1877)年頃には、 約18町歩 (約18ha) の広さの田畑を潤していました。 牟礼分水を利用して作られた水田は、 牟礼田んぼとよばれていました。
牟礼地区公会堂入口付近には、牟礼田んぼの水路の遺構と伝えられているものが見られます。
◆サミットストア 三鷹台団地店
◆牟礼御嶽神社
◆井の頭橋
下は玉川上水。
続く。
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