2024/01/14 松中橋











◆砂川用水



砂川用水の由来
 砂川用水は、明暦三年(1657)幕府財政再建の一環として武蔵野新田開発のため玉川上水から分水され、松中橋から上水と平行に東上し、天王橋から五日市街道に沿って開通された。
 残堀川の旧水路が五日市街道と交差する付近(三、四番)の小集落に過ぎなかった砂川新田(村)は、砂川用水の開通により現在のように五日市街道に沿って計画的に耕地が開発出来るようになった。
「砂川の歴史による」






玉川上水 (国史跡)

江戸時代のはじめ、 多摩川の水を飲料水として江戸市中に供給する目的で開削された上水路です。羽村の取水口から四ツ谷(新宿区)に至るその開削は、幕府の命によって玉川兄弟が請負い、 承応3年(1654年)に完成、以後、 今日に至るまで江戸・東京の主要上水として機能しています。
一方、この水は、水の乏しい台地上の村々にも多くの分水を通じて供給され、 人々の農耕生活に重要な役割りを果たしてきました。 しかし、その使用に際しては幕府の許可が必要で、また種々の制限も加えられ、人々はこれを自由に使うことはできませんでした。
この地から分流する砂川分水は明暦3年(1657年)の開通、 柴崎分水は元文2年(1737年)の開通で、それぞれ砂川新田・柴崎村(現立川市)の人々に永い間、生活・農業用水として利用されてきたものです。






◆美堀橋から松中橋





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