前のページからの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/10/15/190000
兜塚古墳は、昭和六二年(1987)と平成七年(1995)に行われた確認調査により、墳丘の残存径約43m、周溝外端までの規模約70m、高さ約4mの円墳と考えられます。周溝の一部の状況から、円墳ではなく帆立貝形の古墳の可能性も指摘されています。墳丘の本格的な調査を実施していないため主体部などは良くわかっていませんが、土師器や円筒埴輪が出土しています。円筒埴輪の年代から六世紀前半の築造年代が考えられています。
兜塚を含む江古墳群は南武蔵で最大規模の古墳群と推定されていますが、墳丘の形状を留めているのは僅かで、本古墳は良好な状態で遺存している貴重な古墳といえます。狛江古墳群ではニヵ所の主体部が発掘調査され、神人歌舞画像鏡、鉄製刀身、玉類、金銅製馬具などが出土した亀塚古墳が有名です。亀塚古墳は五世紀後半から六世紀初頭ころの狛江古墳群の盟主墓と考えられますが、兜塚古墳は亀塚古墳の次世代の盟主墓と考えられています。
◆伊豆美神社
別のページで。
2024/10/15 伊豆美神社 - ovanの社会科見学
◆中和泉庚申塔(品川道)
◆山谷庚申塔
この庚申塔は狛江市に二十五基残っているもののひとつで、本尊は青面金剛といい、右側が宝永元年(1704)、左側が文化元年(1804)に建立されたものです。宝永の塔の青面金剛像は合掌し、斧・矢・索(縄)・弓を持っており、他の青面金剛像が持っている矛・宝輪ではなく、そのかわりに斧や索を持つ例は珍しいとされています。開墾・五穀豊穣を祈願したのかも知れません。上部左右には日月、青面金剛像の下には大きな三猿、基部には蓮の葉と蕾が剛られています。そして「奉造立庚申像一尊武州多麻郡和泉村 敬白/千時宝永元甲申天霜月良辰同行三十壱人」の銘があります。
庚申とは干支の「かのえさる」を指し、六十日ごとにめぐってくる庚申の日には、夜を徹して庚申様に長寿を願う行事を行ってきました。 これを庚申待ち、または庚申講といいます。この行事は中国の道教に由来しており、習俗として日本に伝わってきました。
また、この地域は江戸時代より山谷(さんや)とよばれており、山谷庚申請はその地名とともに、今でも脈々と受けつがれています。
銅板葺きの庚申堂が完成したのは平成五年です。現在は長寿・家内安全・商売繁盛・交通安全などを祈願する場所になっています。
栁久保稲荷神社-其由緒
当社は柳久保稲荷神社と稱し狛江市中和泉五丁目に鎮座し祭神は稲田姫大神にして豊饒・財宝を司る大神である本社は京都東伏見稲荷神社の分霊を勧進し現地の南台地の麓柳の繁茂せる俗稱柳窪に在りしが遇々多摩川の大洪水に遭遇し為に社殿流失し諸記録と共に失ひ其後洪水の災禍を慮り台地である現在の聖地に遷宮したものであり社名も柳久保と改めた。遇々維新以後数度に亘り悪疫が村内に蔓延止まる所を知らず当氏子の人々之を憂え悪疫退散祈願をするに霊験忽ち現われ日ならずして悪疫退散す以来諸病平癒・冨貴来福・子孫繁栄・家内安金・商売繁昌・交通安全等総ての顧事成就せざる事なき神霊なりとして遠近に知れ渡り霊験灼かなる神社である今般付近発展を契機に氏子一同相謀り霊験灼かなる当社の神霊の加護に報ゆるため本殿を新築鎮座されて一般参詣者の諸願達成商売繁昌交通安全家内安全等災禍から守護を願う参詣者更ならしめんとした所以である