2018/02/28 砂町散歩 11 大島緑道・堅川河川敷公園/子安稲荷神社/堅川第二公園/亀戸平岩公園/稲荷神社/昭和橋通り/亀戸駅

首都高速小松川線も超えて、いよいよ亀戸駅
大島から亀戸って寄り道しないで歩いたら20分かからないかな?



◆大島緑道・堅川河川敷公園




上は首都高速







橋の記憶

ここには、かつて川があり、橋がありました。
橋には都電が走っていました。
時の流れとともに、都電は廃止され、高速道路が建設されました。
やがて、川は埋め立てられ公園となり、役目を終えた橋が撤去されました。
長年、みなさんに親しまれた橋の思い出を次の世代に伝えていくため、
ここに「橋の記憶」を設置します。





この橋は路面電車の専用橋として、大正2年10月に設立された城東電気軌道(株)が、大正10年1月に水神森〜大島間の開通に合わせて、「竪川専用橋」として架設したものである。その後、昭和17年2月に東京市営、同18年7月に都営となり、経営は軌道に乗ったが昭和20年の大空襲により寛大な被害を受けた。しかし復興に努め、昭和24年には区内全線が開通した。「チンチン電車」と呼ばれて親しまれ、便利だった都電も昭和30年代の高度経済成長政策の頃から、自動車交通の急激な発達により道路が渋滞し、輸送力低下による赤字決算の連続となった。その結果昭和47年、区内全線が廃止された。そして、昭和50年、この橋は歩行者・自転車専用橋として整備され、同54年」橋の南北の軌道敷きは「緑と憩いの散歩道」として緑道公園に生まれ変わった。
 都電が廃止されて二十年余りが経過した今日、無公害で経済的な交通手段として、懐かしむ声もある。区では、この橋を「うるおいの橋」として景観整備するにあたり、緑道公園と堅川河川敷公園の結節点に位置し、まちのランドマークとなることから、モニュメンタルな橋とした。又、地域の歴史を知る上でも、都電をモチーフとして修景した。

 レールの一部は「25系統」の亀戸九丁目で使われていたものを再使用し、車輪は写真などを参考にしてオブジェとしてデザインした。




◆子安稲荷神社






◆堅川第二公園



◆亀戸平岩公園




◆稲荷神社

「亀戸平岩公園内」に祀られてた。




この地は徳川家康の家臣であった平岩家の先祖が、三河より徳川幕府に従って江戸に居を定めてから、大正の中頃まで、約三百年にわたって平岩家代々の居所であった。幕末より明治にかけて竹問屋として名を成した。六代目平岩甚助の死後、昭和十六年に、楠にかこまれた広大な敷地内にあった千坪の池が埋め立てられ、その一部約340坪が公園として東京市に寄付された。その後昭和二十五年に東京都より江東区に移管され現在に到る。現存する稲荷社は古くから祀られていたものを元の築山の上に移したものである。







◆昭和橋通り




亀戸駅

今回は一度行ったところがほとんどで、うんざりするかなと思ったんだけど、道順を変えたりしたせいか新しい発見もありかなり新鮮だった。
ということは、他の場所もルートを変えて再訪すると、また何か発見があって面白いかもしれない。

2018/02/28 砂町散歩 04 江東区旧大石家住宅

江戸時代の終わり頃に建てられた区内最古の民家建築。
平成8年、仙台堀川公園内に移築(元は東砂8丁目)。







お雛様が飾られてた。




他の古民家に比べるとこじんまりしている感じがする。
この家を寄贈した大石さんは何をされていた方なのかまでは判らなかった。


江東区旧大石家住宅のHPはコチラ↓
http://www.city.koto.lg.jp/103020/shisetsuannai/kokyo/kinenkan/16767.html



場所は地下鉄東西線南砂駅から徒歩15分ほど。
休館日は祝日を除く月〜金。
なので、営業しているのは、土、日、祝日のみとのこと。
行かれる方は事前にHPなどでチェックしてから行ってくださいネ!

2018/02/28 砂町散歩 05 亀高橋歩道橋/金森稲荷/金森公園/日本経済新聞社/お地蔵様/砂町聖前歩道橋

清洲橋通りを西へ進む。
西へ進むほどにぎやかになってくる。



◆亀高橋歩道橋





◆金森稲荷神社



◆金森公園


日本経済新聞社南砂別館



◆お地蔵様

日経新聞社さんのすぐ近くにあった。




◆砂町聖前歩道橋







続く。

2018/02/28 砂町散歩 06 境川周辺の移り変り/志演尊空神社/城東警察署/砂町銀座/高平稲荷/北砂公園

東西に延びる清洲橋通りから南北に延びる明治通りに入る。
明治通りを北上中、賑やかな商店街を見つける。



境川周辺の移り変り



 境川(現在の都道清洲橋通り)周辺は、江戸時代砂村新田と呼ばれていました。
 これは、砂村新左衛門が万治2年(1659)宝六島(現在の南砂1丁目付近)を中心に、436石の新田を開拓したことから、開拓者の名前をとったものです。
 新田の中央に小名木川から水をひいて、中川に注ぐように幅約19mの水路を設けました。
 この水路は、砂村新田の八右衛門、久左衛門、亀高、大塚の4ヵ村の南を境にして、流れていることから、境川といわれました。
 その後、境川は田畑の減少、舟運の減少等に伴って水路としての必要性が薄れ、廃川となり、昭和5年(1930)道路へと移り変わりました。


あとはちょっと字が薄れていて読めないなあ。



◆志演尊空神社



力石



江戸東京の農業 野菜の促成栽培は発祥の地・砂村

 野菜の促成栽培は 寛文年間(1661〜73)の頃, 中田新田の農民, 松本久四郎が考案した と言われています。
 初物を食べる というぜいたくが広がり過ぎると, 農家は米麦など基本食糧の生産よりも, 高く売れる 初物づくりに力を入れるようになり, また, 庶民のぜいたくは, 身分制度をゆるがすことになるとして, 江戸幕府はたびたび, 出荷日を統制する法令, 促成栽培禁止の町触れを 何回も出して, 取り締まりました。
 この促成栽培の方法は, ゴミを堆積すると発酵熱が出るのを利用し, 江戸市中から出るゴミ(江戸ゴミ)を堆積, この熱を利用して 早く野菜の種をまくことで, 収穫が早くできるようになりました。明治維新以後には一層盛んになり, 昭和に入って産地の中心が江戸川方面に移るまで続きました。
 江戸ごみという都市廃棄物を農業生産に活用した, 見事なリサイクルが 昭和30年代まで展開されてきた事実にも 驚きと先人の苦労がしのばれます



◆城東警察署



◆砂町銀座






◆高平稲荷神社

建物の階段をあがったところにある。
注意してみていないとわからない神社だね。





◆北砂公園

砂町図書館という大きな建物が隣接している。



続く。

2018/02/28 砂町散歩 07 稲荷通り/北砂治兵衛稲荷/亀高神社/丸八湯/亀守稲荷/丸八橋/文化湯

砂町銀座周辺を散策した後は、東へ進んでいく。



稲荷通

稲荷通りって書いてある大きな看板の近くに「北砂治兵衛稲荷神社」がある。




◆北砂治兵衛稲荷神社








◆亀高神社










◆丸八湯




◆亀守稲荷






◆丸八橋

この橋は渡らなかった。
小名木川に架かる大きな橋だった。






◆文化湯





続く。

2018/02/28 砂町散歩 08 お地蔵様/東砂一丁目公園/上妙寺/因連寺/東砂三丁目公園/生田神社/東砂三丁目第二公園

今回のエリアは東砂と呼ばれる住所のあたり。
公園がさらに多くなってきたような気がする。



◆お地蔵様




◆東砂一丁目公園



◆上妙寺


子育鬼子母神


境内社

右はお稲荷さんだけど、左は何の神様だろう?



道祖神


鬼子母神道道



 江戸時代後期の文化十年(1813)、上妙寺第一六世日閑の代に神田小柳町千代田区)の商人井筒屋久治郎。伊勢屋平吉・佐野屋平七の三名を世話人として再建された道標です。当初は小名木川沿いの道に、西向きに建てられ、江戸から来る参詣者の目印となっていましたが、昭和三十年代以降に、上妙寺境内に移されました。
 本道標は、塔身と基礎で構成され、塔身正面には「南無妙法蓮華経」の題目、右側には建立年代、左側に「是ヨリ鬼子母神道」と刻まれ、基礎には「上妙寺」の寺名と世話人の名前が陰刻されています。
 鬼子母神道の名称は上妙寺の鬼子母神像に由来します。寺伝によると上妙寺の鬼子母神像は、第八世日蓮の時代に大津波によって境内に流れ着き、第十一世日龍の時代に鬼子母神尊神堂が建立され、堂内に祀られたと伝承されています。こうした由緒から天保十一年(1840)刊行の「東都本化道場記(とうとほんけどうじょうき)」では「海中出現の鬼子母尊神堂」と紹介されています。
 この道標は、十九世紀初めには上妙寺鬼子母神の信仰が隅田川を超えて仲田まで広がり、江戸の人々が参詣に訪れていたことを示しており、江戸時代以来の上妙寺の鬼子母神信仰を今に伝えるとともに、小名木川南岸の道から上妙寺に至る道が参詣の道としての性格を有していたことを示す貴重な文化財です。




◆因連寺




公開日とかあるのかな?



◆東砂三丁目公園



こちら公園のトイレにも歴史が・・・。



◆生田神社





◆東砂三丁目第二公園




続く。

2018/02/28 砂町散歩 09 末広通り商店街/妙法陶首稲荷/宝塔寺/塩の道橋/大島稲荷/勝智院/正一位稲荷

東大島にかなり近い場所にやってきた。
そちらには行かないで大島駅の方に向かう。



◆末広通り商店街



◆妙法陶首稲荷




◆宝塔寺



塩舐め地蔵



この塩舐め地蔵は石井某によって小名木川から掘り出され、宝塔寺に納められたと伝えられます。小名木川は慶長年間に開削されておりおそらく宝塔寺の開創慶長十五年・1610年)とともに境内に安置されたものでしょう。塩地蔵と呼ばれる地蔵尊は極めて数少なく供えられた塩をつけると疣(いぼ)が取れるといわれ疣取り地蔵ともよばれます。また商売繁昌、航海安全のご利益も授かると伝えられています。





◆塩の道橋



こちらの橋は渡らなかった。
人しか通れない橋だった。
人通りの多い橋で、どうしても人が入ってしまう。




◆大島稲荷神社





佐竹神社




松尾芭蕉石造象



 当神社境内に保存されている「女木塚」句碑にある一句は元禄五年(1692)翁が深川より小名木川近在の門人桐奚宅の句会に行く途中船を留め神社に立ち寄り参拝し句会で詠まれたもので
 秋に添て 行ばや末ハ 小松川
としたためられております。
その後芭蕉翁歿後其日庵社中により神社にこの句碑が建立されました。本句碑は歴史的価値により、江東区有形文化財に登録されております。平成十三年(2001)九月十九日には、大島稲荷神社御鎮座350年式年大祭が開催されました。輝かしい佳節を迎え総代氏子崇敬者一堂記念事業の一環として、茲に350年史として緑り深いこの地に遺徳を偲び、其日庵社中に感謝の意をこめて翁の石造像建立して後世に伝えることに相成ました。






◆勝智院

廃寺かな?
手入れはされて無いようである。




正一位稲荷神社



続く。

2018/02/28 砂町散歩 02 お地蔵様/トピレックプラザ/富賀岡八幡宮/明治座/四十町歩道橋/東砂天祖神社/地蔵堂

本八幡通りを東ヘ進む。
四十町歩道橋からは四十町通りを北上する。



◆お地蔵様




◆トピレックプラザ

昔、オープンしたばっかりの頃に仕事でちょっぴりお世話になった場所。
案内で立っていたら、
「おめぇんところに行くにはどこからはいったらいいんだ?」
と、いきなり「おまえ」呼ばわりされて、なんてガラの悪い地区なんだという思い出がある(w



◆富賀岡八幡宮




富士塚

登っちゃダメって書いてあった(涙
それでもお参りしたので富士山に登ったのと同じ御利益♪



出羽三山の碑



判読できない・・・・。
うちの田舎(山形鶴岡)の霊峰。


浅間神社




鳥居




明治座

中央区浜町にあるあの有名な明治座関連の建物らしいが、こちらでは何をしてらっしゃるのかわからなかった。



◆四十町歩道橋





◆東砂天祖神社


龍神大神/水神大


稲荷大神



鳥居



地蔵堂




続く。

2018/02/28 砂町散歩 01 仙氣稲荷神社/仙氣いなり通り/延命子育て地蔵尊/稲荷神社/本八幡通り/中央寺

24時間勤務アケに、砂町散歩。
都バスで新砂二丁目(東陽町駅と南砂駅の間くらい)で降りて、JR総武線亀戸駅まで歩いた。
先週散歩したが写真のデータが残ってなかった場所が大半を占める。



◆仙氣稲荷神社




仙氣ってお腹のことなんだね。




◆仙氣いなり通り




◆延命子育て地蔵尊





◆稲荷神社




本八幡通り



◆中央寺



続く。

2018/02/28 砂町散歩 03 船入川跡/旭湯/末広通り商店街/中田稲荷/大塚天祖神社/北向子育て地蔵尊/仙台堀川・横十間公園

まだ四十町通りを北上。
清洲橋通りを超えてからは北西へ向かう。


◆船入川跡

舟入公園の中にあった。



 江戸時代から大正時代まで、この辺りは八郎右衛門新田と呼ばれる農村地域で、この公園の前を南北にはしる通りは、かつて船入川という名の川でした。
 船入川は、現在清洲橋通りとなっている、境川から南流し東砂8-6・21辺りで堀留めとなっていました。ここでは、道幅が急に狭くなっていて、当時の面影をとどめています。
  主に、農業用水や荷物の運搬に使われ、両岸の土手の上には、農家や鎮守社が軒を連ね、その背後には耕地が広がっていました。北から出戸の橋、神明橋、土橋、榎本橋という4つの橋が架かっていました。
 昭和十三年(1938)から埋立てられ、昭和十五年(1940)に砂利道となりました。今は通称「四十町通り」と呼ばれています。この名の由来は、八郎右衛門新田の面積が、40町(約40ヘクタール)あったためと言われています。



◆旭湯



◆末広通り商店街



◆中田稲荷神社


地蔵尊

でも、よくみると「なかだのじどをそん」と書いてある。
境内になるか外になるのか微妙な場所に建っている。




鳥居



◆大塚天祖神社神明宮


天祖稲荷神社



鳥居



◆北向子育て地蔵尊

大塚天祖神社神明宮の目の前にあった。



仙台堀川・横十間公園



続く。

2018/02/28 砂町散歩 10 砂島橋/小名木川かさ上げ護岸の歴史/稲荷神社/大島五丁目公園/大島中央銀座/亀出神社/二大小前歩道橋

小名木川を離れて都営新宿線も超える。
大島駅に向かっていたが、元気があったので予定変更。
亀戸まで歩くことにする。



◆砂島橋

こちら、歩行者専用の橋だった。





小名木川かさ上げ護岸の歴史




 小名木川は、小名木四郎兵衛が徳川家康の命を受け、1590年頃に開削した運河です。江戸時代には行徳の塩や近郊の農作物、東北からの米、醤油等を江戸の市中へ運んだ河川で、「塩の道」とも呼ばれていました。
 この小名木川が流れる地域は、乱流する荒川(現隅田川)や利根川の河口部に堆積した三角洲を埋め立て、江戸の市街地として発達してきたことからもともと低地であり、過去幾度となく高潮や洪水の被害を受けてきました。更に明治末期からの工業地帯としての発展に伴う地下水の過剰な汲みあげにより地盤沈下が進行し、荒川と隅田川に囲まれた江東三角地帯は、東京湾の満潮水位以下となってしまいゼロメートル地帯とも呼ばれております。
 地盤沈下が続いた町を水害から守るため、小名木川を始めとする江東内部河川(江東三角地帯を流れる河川の総称)の護岸は、かさ上げを余儀なくされました。しかし護岸は、応急対策としての度重なるかさ上げにより、まちと川が分断されるとともに構造的に脆弱化し、大地震が発生した際の護岸崩壊による水害の危険性が心配されてきました。
 東京都はこの地震水害から地域を守るため、昭和四十六年より江東内部河川整備事業に着手し、北十間川樋門および扇橋閘門より東側を流れる江東内部河川については荒川など周辺河川から締め切り、平常時の水位を周辺地盤より低く保つ「水位低下対策」を平成五年三月に完了させました。現在、小名木川では水位低下に伴い不要となった「かさ上げ護岸」の上部を切り取り、「塩の道」の再生として江戸情緒を醸し出す石積み風護岸の整備を進めております。
 この小名木川の旧護岸は、「塩の道」の再生に当たり、これまで水害から地域を守ってきた「かさ上げ護岸」の歴史を後世に伝えるとともに、低地に暮らす都民の方に水防意識を継続していただくため、その一部を保存するものであります。



◆稲荷神社





◆大島五丁目公園



◆大島中央銀座




◆亀出神社



御神楽


草分稲荷神社




亀出子育地蔵尊


鳥居



◆二大小前歩道橋






続く。