2018/02/26 清澄散歩 01 戦災殉難者慰霊之碑/黒船橋/門前仲町の火の見櫓/門前仲町駅/深川モダン館/伊能忠敬住居跡

24時間勤務アケで、JR京葉線越中島から都営新宿線清澄白河駅まで北上。
東西線木場駅付近まで南下し、越中島駅まで歩きました。



スタートのJR京葉線越中島駅


◆戦災殉難者慰霊之碑




◆黒船橋





門前仲町の火の見櫓



江戸時代、江戸の市中には葛西の早期発見のため多くの火の見櫓が建っていました。高さ三丈(約9m)ほどの櫓の上部には半鐘が取り付けられていち早く火災の発生を知らせてくれました。
 深川の南部にも佐賀町下の橋際(佐賀二)富吉町(永代一)門前仲町などに火の見櫓が立てられていました。
 なかでも門前仲町の櫓は今の門前仲町の交差点付近かつての富岡八幡宮一の鳥居近くにありました。周辺は永大寺富岡八幡宮三十三間堂といった江戸名所が集り現在同様に門前町としておおいに賑わっていた場所です。
 この櫓は深川一の繁華街を守るという大きな役割をはたしていました。「災害のない街」を願う気持ちは今も昔も変わりません。




門前仲町駅



◆深川モダン館(旧東京市深川食堂)




 東京市深川食堂は、東京市が社会事業施策として、大正九年(1920)から順次設置した一六カ所の市設食堂 のひとつです。延床面積は一〇六坪。関東大震災の復興事業の一環として、昭和六年(1931)に着工、翌七年三月に竣工しました。市設食堂とは低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設のことです。一一年に閉鎖されましたが、一三年に東京市深川栄養食配給所として活動を再開、東京大空襲で被災しましたが全焼をまぬがれ、戦後部分修復して、東京都の職業斡旋施設となり、三二年には授産機能、三六年には福祉機能が追加されました。五四年に江東区へ移管され、「江東区内職補導所」と改称し、数度の名称変更を経て、平成一八年に閉鎖されるまで利用されました。
 構造は二階建て鉄筋コンクリート、外壁はモルタル下地吹上仕上げ。大震災の教訓を活かし、当時の最先端技術である鉄筋コンクリートが採用されました。デザインの特徴は、明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と、二階南側のスチール・サッシュ窓にあります。震災復興の近代建築物としての希少性が認められ、平成二〇年に国登録文化財に登録されました。



伊能忠敬住居跡



伊能忠敬は千葉県に生れ江戸にでて高橋東岡(高橋至時)に測量術を学び寛政7年(1795)幕府の命をうけて全国を測量し沿海路程図を完成した。その測量の原点は伊能忠敬の居宅であった。伊能忠敬ははじめこの付近にすみのち中央区八丁堀にうつり正確な地図を完成した。伊能忠敬は文政元年(1818)4月13日74歳をもって死去し台東区源空寺に葬られている。



続く。

2018/02/26 清澄散歩 02 深川一丁目児童遊園/えんま堂/心行寺/深川明治歩道橋/小津安二郎誕生の地/採茶庵跡

清澄通りを北上する。
以前「えんま堂」には来たことがあったが、周りがこんなに史跡があるんだと驚かされた。



◆深川一丁目児童遊園



トイレの壁に歴史が!
いいことだとは思うけど、ちょっと写真撮りづらいね(w


◆えんま堂




2013/10/07 に一度来ている。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20131007/1388668763



◆心行寺





◆深川明治歩道橋





小津安二郎誕生の地

深川明治歩道橋のすぐ下になる。



 江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は、明治三十六年(1903)十二月十二日、この地に生をうけました。生家は「湯浅屋」という屋号の肥料問屋でした。安二郎が十歳のとき、三重県松阪町に転居、中学校卒業後、尋常小学校の代用教員を1年間勤めた後、大正十二年(1923)再び上京、深川和倉町に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。
 昭和二年(1927)監督に昇進、処女作時代劇「懺悔の刃」を監督しました。
 その後の小津安二郎監督作品は、「出来ごころ」に代表されるような、下町特有の情緒や人情味が描かれ、またローアングルによる撮影スタイルなどによって、家族の触れ合いや日常生活を端的に描く独特の作風を作り上げていきました。
 昭和三十七年(1962)「秋刀魚の味」を発表、映画人としては、初の芸術院会員となりました。この作品が小津安二郎の遺作となり、翌昭和三十八年(1963)60歳で死去しました。その作品の価値は死後内外共にいよいよ高まり、世界最高の映像作家として評価されています。



◆採茶庵跡(さいとあんあと)



 採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風(すぎやまさんぷう)の庵室です。杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋、俳号を採茶庵、五雲亭などとし、隠居したのちは一元と名乗りました。家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、「常盤屋句合(ときわやくあわせ」「隅田川紀行」などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。
 採茶庵があった場所については、杉風の娘婿である隋夢(ずいむ)の遺言状に「元木場平野長北角」と書かれています。平野町は、海辺橋南詰から万年町二丁目(深川1−8)を挟んだ一角でした。説明板が建っている海辺橋のたもとより140メートルほど南西に位置します。
 芭蕉奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから欧州へと旅立っていきました。                                                                     


続く。                                        

2018/02/26 清澄散歩 03 海辺橋/清澄庭園(児童公園)/滝沢馬琴誕生の地/深川と水/辰巳湯/深川資料館通り

まだまだ清澄通りを北上。
道幅が広いので反対側に渡るのに時間がかかる(汗
現地に詳しい人なら、これからUPする写真を撮るのに苦労したのがわかると思う(w



◆海辺橋







清澄庭園(児童公園)

こちらは無料で入れるところかな?
有料の方はのちほど(そちらは定休日)




滝沢馬琴誕生の地

深川ふれあいセンター 平野児童館 という建物の前にある。




 江戸時代後期の小説家。明治四年(1767)六月九日、旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、嘉永元年(1848)十一月六日、82歳で病没しました。名は興那、曲亭馬琴・著作堂主人などと号しました。
 安永四年(1775)、9歳で父親と死別し、その後は、松平家の孫の遊び相手として一家を支えていましたが、安永九年(1780)、14歳の時に松平家を出ました。門前仲町に住み、文筆で身を立てようと、寛政二年(1790)山東京伝のもとに入門しました。翌寛政三年(1791)正月に処女作として、京伝門人大栄山人の名で黄表紙「尽用而二分狂言」を発表しました。以後、儒教思想にもとづく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著し、読本作家の第一人者と称されました。
 天保五年(1834)ころより眼を患い、晩年は失明しながらも、口述・代筆で著作を続けました。
 読本・黄表紙から随筆にいたるまで、約470種にものぼる著作を残しています。




◆深川と水


観光高札
深川と水

 深川では江戸時代から飲料水の確保に大変苦労しました。この地が海面の埋立による造成地であるために井戸水の水質が悪く、その上隅田川が障壁となって神田・玉川両上水の利用ができなかったからです。そのため飲料水は水船に頼らざるを得ませんでした。
 深川に上水道が完成したのは明治も後半になってからでした。それまでは、神田・玉川両上水の余り水を銭瓶橋(ぜにがめばし)(大手町付近)の「吐水口」で水船に積み込んで各地に陸揚げし、「水屋」「水売」と呼ばれる人々が棒手振りで飲料水を売り歩きました。ここ海辺橋の北岸は、江戸時代から「水場」と呼ばれており、この辺りでも水船から飲料水が陸揚げされたものと思われます。


って、水の確保は大変だったんだね・・・・。





◆辰巳湯




◆深川資料館通り


この通りを進んで行くと「深川江戸資料館」がある。
二度来たことがあったかな?
日記には一つしかなかった。


2013/08/29
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20130829/1378012596



もうちょっと先を曲がったところには「東京都現代美術館」がある。
そちらも一度来たことがあった。
今は改装中でお休みとのことだった。

2013/08/29
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20130829/1378009354




続く。

2018/02/26 清澄散歩 04 清澄庭園/村田春海の墓/本誓寺/常照院/呂一官の墓/臨川寺

清澄庭園の北側にお寺がまとまってる地区があった。
この日記の場所は100m四方もないと思われる場所に全部ある。



清澄庭園


前にも来たところ。
はてな」でブログを始める前らしく、日記が見つからなかった。
月曜日で定休日だった。



◆村田春海(むらたはるみ)の墓



 江戸時代中期の国学者歌人日本橋小舟町の豪商村田春道の次男として延享3年(1746)に生まれた。父春道、兄春郷(はるさと)とともに加茂真淵の門人で著名な国学者であった。春海は国学者としては仮名遣いや五十音の研究に造詣が深く、歌人としては加藤千陰(ちかげ)とともに古今調の流麗な一派を立て江戸派と称せられた。門人に清水浜臣(はるおみ)・小山田(高田)与清(ともきよ)・岸元由流(ゆずる)らがおり、江戸の宗匠と称せられ、従い学ぶ者が衆をなしたといわれる。
 『琴後集(ことじりしゅう)』『歌かたり』『和学大概』など多数の著書がある。文化八年(1811)二月十三日66歳で死去した。墓石に楷書で平春海先生墓とある。




◆本誓寺







◆常照院




◆呂一官の墓


 呂一官は明(中国)に生まれ、日本に帰化した人である。一官は漢方医で、薬草・香木などの研究に大変すぐれていた。はじめ京都にいたが、徳川家康の招きで浜松に居住し、その後家康の侍医として江戸へ移った。日本橋に屋敷地を賜り、元和元年(1615)に「紅屋」という屋号の店を構え、臙脂(えんじ)(紅)・白粉(おしろい)などを製造販売し、たちまち評判となった。元和九年(1623)十月十日に没した。戒名は「迎誉来相信士」。
 過去帳によると「元祖唐人辻一官」とあり、五代目から「堀氏」を名のっている。文政五年(1822)堀氏十三代目の頃、近江上人外池字兵衛正保の子半兵衛正義が養子となり紅屋を継いだ。これが「柳屋」の創業といわれ、現在でも一官は柳屋業祖として祀られている。
 一官の墓は宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、本誓寺墓地の左奥角にある。



臨川寺




玄武仏碑
 臨川寺は、承応二年(1653)鹿島根本寺(茨城県)第20世の冷山宗仙和尚が小名木川に近い現在地に結んだ臨川庵に始まり、仏頂河南和尚(根本寺第二一世)が幕府に願い出て、正徳三年(1713)に「瑞甕山臨川寺」という山号寺号を許され、京都妙心寺の末寺となりました。
 延宝八年(1680)に深川に移り住んだ松尾芭蕉 は、仏頂和尚と親交が厚く、たびたび参禅に通ったと伝えられています。芭蕉の号「桃青」も仏頂和尚によるものといわれています。以来、芭蕉ゆかりの寺として玄武仏碑をはじめ、梅花仏碑・墨直しの碑・芭蕉由緒の碑などが残されています。
玄武仏碑は、美濃派の俳人神谷玄武坊(玄武仏、寛政一〇年〈1798〉没)を顕彰するために門下の白山下連中が建てたものです。延享(1744〜48)のはじめ、玄武坊は芭蕉門下の各務支考(梅花仏)が京都双林寺に建てた芭蕉墨直しの墨跡を写した碑を臨川寺に建て、毎年三月に墨直会を催して芭蕉をしのんだといわれています。また玄武坊は梅花仏碑も建てたといわれ、芭蕉と美濃派の顕彰に尽くしました。



続く。

2018/02/26 清澄散歩 05 三穂道別稲荷/深川稲荷/桑田立斎先生種痘所之碑/萬年橋/北の湖部屋跡/高田川部屋/尾車部屋

この辺りまでは小名木川隅田川寄り周囲。
相撲部屋がいくつかあった。



◆三穂道別稲荷神社




◆深川稲荷神社





◆桑田立斎先生種痘所之碑




桑田立斎先生顕彰会がジェンナー種痘発明 200 年を記念して建立されたということだった。
台東区橋場の保元寺には桑田立斎の供養墓があるとのことなので、今度行ってみよう。




◆萬年橋

この橋は前に一度渡っている。
橋の説明なども日記にしてあった。
2017/06/11
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170611/1497612030




北の湖部屋

山響部屋となって、2017年に江東区東砂に移転したとのことだった。



高田川部屋

1974年(昭和49年)3月場所に現役を引退して高砂部屋の部屋付き親方となった年寄・8代高田川(元大関・前の山)。
弟子8人を連れて高砂部屋から独立。
高田川部屋を創設したとのこと。



尾車部屋

1985年(昭和60年)11月場所に現役を引退して佐渡ヶ嶽部屋の部屋付き親方となっていた年寄・8代尾車(元大関・琴風)。
1987年3月23日付で5人の内弟子を連れて佐渡ヶ嶽部屋から独立して尾車部屋を創設したとのこと。




続く。

2018/02/26 清澄散歩 06 新小名木川水門/昭文社/二代目中村芝翫宅跡/清澄白河駅/高橋/干鰮場跡/清洲寮

清洲橋通りを東へ進む。
この通りもかなり道幅の大きい通りだ。



◆新小名木川水門




昭文社


紙の地図を使っていたころはよくお世話になったなあ。
こちらは制作本部で本社は麹町にあるとのこと。




◆二代目中村芝翫(しかん)宅跡



 歌舞伎役者の二代目中村芝翫は、寛政八年(1796)江戸下谷に生まれ、嘉永五年(1852)二月十七日に57歳で没しました。
 はじめ舞踊家で初代藤間勘十郎の門人(のち養子)になり、藤間亀三郎を名乗りました。その後、江戸で出演中の三代目歌右衛門の弟子になり、文化十年(1813)に中村鶴助と改名、文政八年(1825)には二代目中村芝翫を継ぎました。屋号は成駒屋です。舞台では、立役(たちやく)、実悪(じつあく)、女方(おんながた)、武道(ぶどう)、荒事(あらごと)など、さまざまな場面で活躍し、天保七年(1836)には、四代目中村歌右衛門を襲名しています。
 二代目中村芝翫は、天保のころこの辺りに住んでいました。そのため、小名木川に面してあった河岸は「芝翫河岸」と呼ばれました。天保二年(1831)に江戸の中村座で「六歌仙(ろっかせん)」を演じた時、喜撰法師(きせんほうし)(六歌仙の一人)の歌詞をひねって、
「我が庵は芝居の辰巳常磐町、而も浮世を放れ里」
と住居付近の様子をおりこんでいます。




清澄白河駅



◆高橋





◆干鰮場跡



 干鰮場はいわしを乾燥したもので江戸時代から重要な肥料であった 寛永のころ関西地方の漁民が銚子付近の海岸で干鰮をつくり、江戸へ輸送するようになった 江戸の干鰮取引きははじめ中央区方面であったが元禄十三年から小名木川にそった白河小学校付近に干鰮の荷揚場がおかれこれを干鰮場といった またここを銚子場ともいった 干鰮場はこのほか永代に永代場、深川二丁目に江川場があった





清洲

寮とあるが集合住宅とのこと。
昭和7年に建てというからもうすぐ90年・・・・。
異様な雰囲気はあるがそこまで古い建築物だとは思わなかった。




続く

2018/02/26 清澄散歩 08 平野二丁目児童遊園/浄心寺/間宮林蔵墓/亀久橋/大和橋/鶴歩稲荷大明神/木場公園

南東方向に向かって歩く。
木場公園はかなり広い公園だね。



◆平野二丁目児童遊園



浄心寺


梵鐘



和合稲荷







間宮林蔵



  間宮林蔵は、安永9年(1780、一説に安永4年)、常陸国茨城県筑波郡上平柳村に生まれ、天保15年(1844)に深川蛤町の家で没しました。
 名は倫宗(ともむね)といい、伊能忠敬に測量を学び、寛政十二年(1800)に幕府の蝦夷地御用雇となり、蝦夷(北海道)をはじめとする北地探検と測量に従事しました。
 文化五年(1808)、幕命により松田伝十郎とともに樺太(サハリン)を探検した間宮林蔵は翌文化六年(1809)七月二日単身樺太からシベリアへ渡って沿海州に入り、黒竜江アムール川)をさかのぼりデレンに達しました。この15ヵ月間に、およぶ探検で、樺太が島であることが明らかとなりました。
 林蔵は後に間宮海峡命名される海峡を奥州人にさきがけて発見したことにより、地理学者、探検家として世界的に有名となりました。





見つけた♪



◆亀久橋







◆大和橋







◆鶴歩稲荷大明神

道路工事していてバリケードがあったが、お願いして入れてもらった(w




木場公園





木場公園大橋

道路(葛西橋通り)と、仙台堀川に架かる、大きな橋。
公園内にある歩行者専用の橋だった。








木場公園ができるまで

木場公園は、仙台堀川を挟み南北にまたがる面積24.2haの総合公園です。昭和44年11月に発表された江東防災8拠点の一つとして、大震災時の避難広場に位置づけられています。また、昭和52年4月には「天皇陛下在位五十年記念事業の公園」に指定され、昭和53年2月に都市計画決定されました。
 この公園の計画区域のほとんどは、公園事業に先立って始まった木材関連企業の「新木場」地区への移転跡地です。昭和53年3月の事業認可の時点で約65%の土地を取得しており、昭和62年度には土地の取得がすべて完了しました。その後、北地区から本格的に整備をはじめ、平成4年6月に都立美術館と地下鉄工事を行っている以外の区域を開園しました。
 長い年月と多くの課題を乗り越え、開園にこぎつけることができたのは、土地所有者を始め、地元関係町会、江東区、区議会などの理解と協力のおかげです。
 公園の整備計画では、下町らしさを強調しつつ、安全な防災空地の確保と快適な生活環境を作ることをめざしました。また、芸術文化、スポーツなどの多様な講演利用状況をふまえて次のような考え方で公園整備をすすめました。
1、江東地区の防災拠点の一つとして、樹木をできるだけ多く植え「水と緑の森林公園」とする。
2、記念物的な施設や公園橋をつくり、「記念公園にふさわしい景観」をつくる。
3、芸術文化の中心的施設として、東京のシンボルともなる「撮立美術館」をつくる。
4、身近なスポーツ施設として、「テニスコート」をつくる。
5、身近な生活のみどりと密着した施設として、「緑の相談所」をつくり、これと連携した「都市緑化植物園」をつくる。
 なお、公園の南北を結ぶ「木場公園大橋」は、仙台堀川葛西橋通りを一気にまたぐ斜張橋で、この地域のシンボルとなるものと期待しています。



続く。

2018/02/26 清澄散歩 07 行成稲荷/延命地蔵尊/子育て地蔵尊/白笹稲荷/善徳寺/雲光院/龍光院

前回の日記、清洲寮からは南下。
またお寺のまとまっているエリアに入っていく。




◆行成稲荷神社





延命地蔵




◆子育て地蔵尊




◆白笹稲荷






◆善徳寺



綺麗ですな♪



雲光院


阿茶の局の墓

阿茶局は今川氏の巨神尾忠重の妻であったが夫の死後徳川家康に仕え阿茶局と称し慶長十九年(1614)大阪役のとき死者として大阪城に入り淀君に面接して和議成立に力を尽し天和六年(1683)2代将軍秀忠の女が京都に入内するとき母親代りとして随行するなど才女としての誉れ高く老後は雲光院と号し寛永十四年(1637)一月二日83歳にて死去し雲光院に葬られた



石造宝篋印塔(阿茶局墓塔)




 本塔は雲光院の開基である阿茶局の墓塔として建てられたものです。宝篋印塔とは内部に「宝篋印陀羅尼」をおさめたことに由来する塔婆の一形式ですが、墓塔・供養塔としても建てられるようになりました。
 阿茶局は弘治元年(1555)、竹田家の家臣飯田氏の子として生まれ、今川家の家臣神尾忠重の妻となりましたが、忠重の死後、側側家康の側室となりました。大坂冬の陣には和睦の使者をつとめ、家康氏語は徳川秀忠の五女和子の入内に際し、母代として在京しました。元和九年(1623)、従一位に叙せられ、秀忠の死後は尼となり雲光院と称し、寛永十四年(1637)、83歳で没しました。
 本塔は総高363.1cm、石質は安山岩です。塔身正面には「雲光院殿従一位尼公」、左右側面と背面には阿弥陀三尊の種子が刻まれています。また、上基礎の正面には「正誉周栄大姉 寛永十四年●正月廿日」と刻銘があります。
 本塔は近世前期の宝篋印塔の様式をよく示し、江戸幕府成立に深く関わった人物の墓塔としても意義深く、貴重な石塔といえます。


●の部分はどうやっても漢字が出てこなかった。




龍光院







続く。

2018/02/26 清澄散歩 09 崎川橋/大栄橋/千石地蔵尊/東京都タクシーメーター深川検査場/横十間川親水公園/豊住公園

今度はまっすぐ南下する。
横十間川親水公園はかなり前に全部歩いたことがある。
桜の名所だ。




◆崎川橋

工事していたので全部撮るのあきらめた。


◆大栄橋



こちらも工事していたので全部撮るのあきらめた。


◆千石地蔵尊






◆東京都タクシーメーター深川検査場




横十間川親水公園




◆豊住公園




続く。

2018/02/26 清澄散歩 10 川の記憶碑/橋の記憶碑/八多稲荷神社/東陽繁出世稲荷/関東大震災横死者供養塔/震災殉難者供養塔/西洲崎橋

ここでもどんどん南下する。
関東大震災横死者供養塔あたりからは以前歩いたことがあるエリア。
見逃してしまっているところが何か所かあったみたいだった。



◆川の記憶碑



この後方においてある丸太は、平住橋撤去工事の際に川底から引き揚げられたものです。かつての横十間川は、上の写真のような材木が浮かび、木の香りが漂う中で颯爽(さっそう)と木材を操る「川並」の姿がありました。
 時代の変遷とともに川並の姿は見られなくなりましたが、川並の仕事から生まれた「木場の角乗(かくのり)」と「木場の木遣(きやり)」は、民っ俗芸能として今に引き継がれております。




◆橋の記憶碑



 平住橋は、昭和4年関東大震災後の復興事業として架けられ、南側の平井町と北側の豊住町を結ぶことから「平住橋」と名づけられました。
 当時、橋周辺には貯木場(ちょぼくじょう)が多くあり、筏(いかだ)に組んだ材木を運んでいました。その後、工場の地下水利用のため地盤沈下が進み、護岸の嵩(かさ)上げが必要となり、昭和34年に架け替えられ、太鼓橋のような形状になりました。
 平成21年に撤去しましたが、橋の記憶を時勢台に継承していくため、ここに橋名板を保存しました。




いちおう、今でも橋にはなってるようだ?
横十間川が流れている。




◆八多稲荷神社


弁財天





◆東陽繁出世稲荷




関東大震災横死者供養塔

沢海橋第二児童遊園内に建立されていた。





◆震災殉難者供養塔



◆西洲崎橋






続く。

2018/02/26 清澄散歩 11 平久橋歩道橋/フジクラ本社ビル/平久橋/松平定信 海荘跡/東富橋/牡丹町公園/越中島駅

今回のエリアも以前歩いたことがあるエリア。
松平定信 海荘跡の説明板を見逃していたらしく、それを見あてで行ってみる。
見逃していたというより、google mapがみんなの書き込みによってマークが増えていってるだね。



◆平久橋歩道橋





フジクラ本社ビル

東証一部の企業さん。
電線御三家の一角とのこと。




◆平久橋

以前通ったことがある橋だ。
2017/06/09
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170609/1497269763



松平定信 海荘(はまやしき)跡



 松平定信は、陸奥白川(現福島県)藩主で、天明七年(1987)に老中となり寛政の改革を実行したことで知られています。海荘は、隠居後の文化十三年(1816)に入手した抱(かかえ)屋敷で「深川海荘」とも呼ばれました。
 定信は政治家・学者としての側面の他、造園家としても著名で、築地の浴恩園(よくおんえん)、大塚の六園(りくえん)、領地白川の三郭四園(さんかくしえん)、南湖(なんこ)公園といった庭園を造りました。海荘には、これら四園の趣向を取り入れた庭園を築きました。
 園内には東西に二つの池があり、池を掘る時に出た土で二箇所の築山を築き、それぞれに「松月斎」「青圭閣」と名づけた休息所を建てました。定信は花木を子のみ、梨園芍薬(しゃくやく)の花畑を作ったほか、桜や躑躅(つつじ)、松、楓などさまざまな草木を植えました。なかでも普賢象(ふげんぞう)という遅咲きの佐倉を特に愛し、桜の季節には浴恩園や六園で花見を楽しみ、最後に世間の桜が散る頃に花盛りを迎える海荘の普賢象を鑑賞したといいます。
 この園内の様子は、国立国会図書館に所蔵されている「深川入船町御邸松月斎真写之図」に詳しく描かれています。



◆東富橋







◆牡丹町公園




越中島駅

今回もかなり歩いた。
一応見たいところは全部見たと思うが、google mapのマークの場所がどんどん増えてるイメージなので、また来そうな気がする。