2016/04/26 part2 旧朝倉家住宅/お地蔵さん/目黒元富士跡

ワニガメさんと「旧朝倉家住宅」へ行ってきました。




東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎氏によって、 大正8年に建てられた。と説明がありました。



建物に細部に至るまで妥協がない立派な造りです。
あまり建築に詳しくないのでそれ以上言えないのですが(w
一度勉強し始めたら止まらないんだろうなあ・・・・。










洋間が一部屋だけありました。
あとは和風建築です。
維持するの大変そうだなあ・・・・。



旧朝倉家住宅のHPはコチラ↓
https://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/asakura.html


場所は代官山駅から徒歩5分ほど
休館日は月曜日のようですが、行かれる方は事前にHPなどでチェックしてから行ってくださいね!



すぐ周辺にもいろいろありました。



<20200404追記>
地蔵尊が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。
 この地蔵尊は、文政元(1818)年の造立で、その台座正面には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂または暗やみ坂といい、この坂を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道二四六号線)に達します。また、堂前を東へ進むと並木橋に達します。
 江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう。』




<20200404追記>
『江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。 富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景に「目黒元不二」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描か
れています。
 元富士は明治以降に取り壊され、石綱や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移されました。』


すぐ脇は目黒区になるみたい??