2021/06/24 足立梅田散歩 01 綾瀬駅/西口本通り会/観音寺/綾瀬稲荷神社/江北橋通り/金子家文書/五兵衛新橋

24時間勤務アケで、東京メトロ千代田線綾瀬駅から東武伊勢崎線西荒井駅まで散歩。

地図を作製したのがだいぶ後になってしまい、細かいところを忘れてしまいました。
おそらく通ったルートがちょっと違う場合があります。
明らかにおかしいところがあったら教えてください。



最初に綾瀬駅からほぼ線路(JR・メトロ)沿いに西へ進む。
五兵衛新橋で綾瀬川を渡る。



綾瀬駅

スタートの東京メトロ千代田線綾瀬駅










◆西口本通り会

商店街♪









◆観音寺



 真言宗豊山派の寺院。開山は賢智上人で17世紀初頭に創建されたと推定される。この地は江戸時代のはじめ頃から開発が進み、五兵衛新田と言われ、その後も同新田の菩提寺として地域とともに歩んできた。のち慶応四年(1868)三月には江戸から退却する新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が金子家とこの寺院に宿泊。新政府軍も伊藤谷橋まで進出し戦闘が始まろうとしたが、新撰組が流山に撤退したというエピソードを持つ。
 開基は開発者の一人で法名を開田院と称した金子五兵衛である。境内に五輪塔形式の墓があり、開発の歴史を今に伝え、金子五兵衛の墓として足立区登録有形文化財となっている。
 本尊は十一面観世音菩薩で江戸時代初期の作、境内に大師堂や鐘楼があるほか、荒川辺八十八ヶ所霊場51番、荒綾八十八ヶ所霊場の70番札所で、荒川をめぐる地域の巡拝地であった。ほかにも境内に寛文四年(1664)の聖観音立像庚申塔があり足立区登録有形文化財となっている。


聖観音立像庚申塔(しょうかんのんりゅうぞうこうしんとう)



 庚申塔庚申信仰をする庚申講の人々によって造立された塔である。
 庚申とは十干の庚と十二支の申とが結び付いた六十日に一回巡ってくる日のことを指す。
 庚申の日は、人間の体内にいる三尸という虫が睡眠中に体内から抜け出て天帝に罪過を告げるため人間の寿命が縮むという説が中国の道教にあり、これが日本に伝わり信仰された。庚申の夜には眠らずに過ごす守庚申に、札拝本尊や宗教儀札が組込まれた庚申待が室町時代の中頃から行われるようになり、江戸時代に入ると一般にも浸透し各地に庚中端が結成され、供養のため の庚申塔が多数造立されるようになった。庚申塔の形態・様式は多様であり、文字塔の他、「青面金剛」,「帝釈天」など種々の神仏を主尊とする。
んばさつ
 聖観音は正式には聖観世音著薩といい、すべての観音のみなもととして、古くから深く信仲されている。像型は光背型で像の左右に「寛文(かんぶん)四庚辰年(1664)極月十五日」・
「泰造立庚申供養二世安穏所也」、下部に地主者がいる一帯に主 ある。区内にある江戸期の庚中塔の初期のものにあたるが、様相の整った極めて見事な刻像である。
 昭和六十二年(1987)十一月、足立区登録有形民俗文化財とした。


鐘楼


遍照尊


山門








◆綾瀬稲荷神社


三峯神社


境内社


楽殿


富士塚



 この富士塚は「綾瀬富士」又は「五兵衛富士」と呼称され、山容が秀麗であると紹介されることがつとに多い。築造年は、昭和二年。富士北麓からボク石(溶岩塊) を西新井駅主で貨車
で輸送し、きらに馬車で運び入れて築山した。現在の山高は、約3.5m。御頂上には浅間社(昭和五十二年再造) が章斎きれ、山中には烏帽子岩や小御嶽も祀2、山麓には、胎内窟がある。所謂(いわゆる)富士塚築造の五大要素を完備Lた正統な富士塚である。昭和三十六年,昭和五十二二年,平成二十六年に修築, 拡張整備工事を施し、今仰ぎ見上げる御山となっている。
富士塚を築造したのは、麻布の包市郎兵衛が興した、山包講の枝講である「山包丸淵(まるふち)講」で、現、山包綾瀨講。綾瀨地域の「古称に由来する講名で、講紋は包の字を丸で囲んだり、山の字を丸で囲んだ紋を使用才る。講名は戦後、山包・五兵衛町講を経て現講名になった。山包の元講は、後年麻布から浅草橋に本拠を移し、更に、元講の証でぁる、富士講箪笥(だんす)(三十一日之卷を始め、御三幅など講祭具一式を収納。文政十年<1837>製)が丸渕講に移讓されて同講が元講となった。現在では二十三区内唯 一の山包講だが、千葉県の市原・館山には多く残る。
 富士塚と祭具一式は、江戸時代の富士講信仰を伝えるものとして貴重であり、それぞれ足立区登録有形民俗文化財となっている。



石塔等


鳥居








◆江北橋通り









◆金子家文書



 幕末の動乱期、当金子家に、新援組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい))が半月余にわたって滞在していた。
 当家には覚書、願書、書簡、それに鎮撫隊の動向者、風聞書など、その間の新選組の動きを知る貴重な資料が多数保存されている。 
 これら四文書から見ると、新撰組の当地滞在期間は慶応四年(1868)三月十三日から四月一日までの二十日間。人数は当初四十八人から次第に增加して、終りの頃には二百三十余人に達し、金子家ほか近くの観音寺に分宿していた。主な資料をあげると、「乍恐以書付奉申上候」=五兵衛新田の年寄源右衛門が、金子家に近藤勇達が宿泊していることを代官所に届け出たものである。
 「おぼへ」=当主健十郎が認めた賄方の記録で、滞在期間の動向を知る貴重な資料である。
 書簡=代官佐々井半十郎より医師松本良順宛と近藤勇宛のもの等がある。
 これらの資料は足立区登録有形文化財となっている。
 また、当家の祖先であり「五兵衛新田」 の開拓者の一人である金子五兵衛の墓 (足立区登録有形文化財)は、観音寺に建立されている。








◆五兵衛新橋

下は綾瀬川





上は首都高速6号三郷線。









続く