2022/03/11 根岸散歩 06 稲荷神社/宝泉湯/小野照崎神社/上野消防署下谷出張所/法昌寺/泰寿院/正洞院

入谷駅西側エリアを散策。





◆稲荷神社











◆宝泉湯

銭湯♪











◆小野照先神社

富士塚の御山開きでお参りに来たことがある。

2019/07/01 日光街道富士塚巡り 02 京成千住大橋駅/千住大橋/素盞雄神社/ホワイト急便(せん♡たくや くん)/南千住駅/小野照崎神社 - ovanの社会科見学

2016/06/30 part1 小野照崎神社(お山開き) - ovanの社会科見学



往昔祭神御東下の砌、上野照崎の地に御遺跡を留め給ひしを地民渇望して上野殿と尊称し、後に照崎の地名をとりて小野照崎大明神を尊崇奉斎するを鎮座起源とす。其後社殿大破せしを江戸太郎重長領主となるに及び武運を祈りて再建し、星霜移り寛永年中上野東叡山草創の砌坂本村長左衛門稲荷境内(境内地)に遷祀奉りし由緒正しき神社にして現社殿は慶應3年の御造営にて大正大震火災竝に大東亜戦争にも聊の被害も蒙る事無く氏子十八ヶ町の産土神として御神経癒、顕著也。御祭神小野篁命は敏達天皇の苗裔にして嵯峨天皇に仕へ博学俊才を以て知られ殊に詩歌に長じ淳和天皇天長年中には令義解を選し、下野国の任を蒙りて足利に至るや我国学校の創始たる足利学校を創立、孔子像を祀り国人に書経を教ふ。亦百人一首の「わだの原八十島かけてこき出ぬと人には告げよあまのつり舟」の詠人としても知らる。御配神菅原道真命に就いては江戸二十五社大神の一つにして渡会天満宮を伝承し菅原尊像を回向院より遷祀す。



 小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿二年(852)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永二年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄四年(1691)頃に遷座したのではないかともいう。
 現在の社殿は慶応二年(1866)の建築で、関東大震災東京大空襲などを免れた。また、境内には、富士浅間神社御嶽神社三峰神社琴平神社・稲荷神社・織姫神社、さらには庚申塔が現存する。
 例大祭は5月19日で、3年に一度、本社の神輿渡御が行われる。


下谷坂本の富士塚



 この塚は模造の富士山で、文政十一年(1828)の築造と考えられている。「武江年表」(ぶこうねんぴょう)同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。境内の”富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が入谷の住人で東講元の大坂屋勘助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。
 東講は富士山信仰 の集団、いわゆる 富士講 の一。富士山信仰は室町末期に起こり、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、今に伝わる塚は少ない。
 ここの富士塚 は高さ約五メートル、直径約十六メートル。塚は富士の熔岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原型が良く保存されている。原型保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和五十四年五月二十一日、国の重要文化財 に指定された。


楽殿


稲荷神社/織姫神社




御嶽神社/三峯神社


庚申塔


先客


鳥居1



鳥居2










◆上野消防署下谷出張所










法昌寺



救世観世音










◆泰寿院


先客

お寺の近くにいた。










◆正洞院



古い電柱

だいぶ古いものだね・・・・。
電線は取り払われていたので、オブジェとして保存しているのだろう。










続く。