一、鎮座地
東村山市久米川町五丁目十三番地 の一
二、御祭神
伊邪那岐命 伊邪那美命 天照大神 (須佐之男命)
三、由緒
創建は定かでないが、言い伝えによると本社は新田義貞が久米川合戦 の 時、後詰を置いた所とされる。また、文明十八年年(一四八六年)聖護院門跡道興准后(しょうごいんもんせきどうこうじゅごう)が東遊 の 際、神前で。
「黒人のくめくめ川と夕暮れになりなば、みずはこほりもぞする」の歌を読まれたとされる。
「東村山市史」(一九七一年)
さらに、熊野神社境内办4虑永三十二年(一四二五年)銘の青銅製鰐口と水鳥形香炉が発見されていることから、鎌倉・室町時代から社殿が存在していたと考えられる。
明治四年 (一八七一年)村社となる
明治十四年 (一八八一年)本殿落成
大正十年 (一九二一年)拝殿落成
平成十四年 (二〇〇二年)社務所落成
四、御神宝
大・中・小の丸い三つの玉石
五、祭礼
四月十五日(春の例祭) 十月九日 (秋 の 大祭)
六、境内面積
六五一五平方ㄨㄧ卜ル うち熊野公園二七二〇平方ㄨㄧ卜儿(公簿值)
七、氏子
崇敬会会員九〇〇名(平成二十三年現在)
八、交通
東村山駅下車徒步二十分
九、宮司
武內建市 電話 〇四二ー三九一ー二三四七
十。備考
境内にある富士塚は富士信仰が当地でも盛んであったことを示すもので市の史跡に指定されている。
◆久米川の富士塚
富士山、その美しい山は古代から信仰の対象とされてきました。 特に江戸時代には富士講が大流行し、江戸を中心として数多くの富士塚が築かれました。 富士塚とは、富士山を模した小さな山で、富士山の溶岩を配したり、富士五湖に見立てた池をつくるなど凝ったものでした。
この久米川の富士塚にも、裾野に風穴がつくられたり、一合目・二合目の標識が置かれていたようです。山頂にあるのは富士浅間社の石祠で、「日立講明治二十一年四月入間川先達富山常行」の銘が刻まれています。また、「日立講」や「官位講」という富士講の名が記された石碑も建立されており、講の存在を今に伝えています。かつて、講の人々が毎年山開きの日に「六根清浄」を唱えながら塚に登り、遥かに富士を拝みました。
戦後、各地の富士塚が破壊される中で、この久米川の富士塚は、現在にその姿を残すことができました。 富士信仰を物語る上でも貴重な遺産と言えるでしょう。
◆伊勢神宮
◆御嶽神社
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