どんどん西へ進む。
この辺りは前に来たことがあった。
桜が咲いてる時でめっちゃ綺麗だった。
たぶん、mixiのフォトアルバムに入ってると思うので後で探してみる。
◆染井吉野ゆかりの地散歩
この駒込小学校の校門の両側にある、日本の代表的な桜「ソメイヨシノ」は、江戸時代の終わり頃この染井地区の植木屋によって作り出された品種です。染井の植木職人達は、江戸時代の園芸文化の中心的役割を果たし、その優秀な技術によって造られた庭園は浮世絵にも描かれており、徳川将軍の中にはたびたび染井の地を訪れた人もいたということです。
1657年(明暦3年)江戸市中を燃やしつくした振袖大火の復興の過程で、「染井通り」がつくられました。その後、通りの南側には柳沢家下屋敷(現六義園)、藤堂家下屋敷、健部家下屋敷(現染井霊園)など広大な大名屋敷が軒を連ねます。これらの広い庭の手入れに駆り出された近隣の農民達が、染井植木屋の始まりといわれています。
以前は文献資料によってしかわからなかった染井の植木屋ですが、1988年から始まった染井地区の発掘調査によって、彼らの活動した場所の様子が少しづつですが明らかになってきました。
当時、この駒込小学校のある場所は松平家の下屋敷の一部でした。遊歩道整備前に行われた発掘調査では庭園の一角や大師道との境に掘られた溝と思われるものが発見されています。
この調査ではまた、旧石器時代の石器も出土しました。これは豊島区で発掘された遺物の中では最も古く、約2万年前のものと推定されています。その近くからは炉の跡と思われるものも見つかっており、採集・狩猟時代の昔からこの地に人間が住んでいたことを示す重要な発見となりました。
この近辺ではその他に縄文時代の土器・竪穴住居、弥生土器、土師器(古墳時代の土器)などが見つかっています。
その後の時代については詳しくわかっていませんが、明暦の振袖大火以前のこの地は、一面の畑の中に農家が点在する農村だったと考えられています。日本郵船用地では当時の畑の畝の跡が見つかりました。そこからは小麦と陸稲の花粉が発見されており、二毛作が行われていたことがわかります。
旧丹羽家の門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが格式のある門です。
この門の建築年代を明らかにする記録はありませんが、言い伝えによれば、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれています。
当初の部材と考えられる親柱には和釘が使用され、風蝕もかなり進んで木目が深く浮き出ています。また、都内の類例と比較して大名家の裏門としてつかわれても不思議はない規模と構造といえます。解体工事の過程で墨書が発見され、弘化四年(1847)、嘉永六年(1853)、安政六年(1859)の三回修理が行われいたことが判明しました。少なくとも建築年代は弘化四年以前ということになります。
この門が丹羽家の所有になった年代ははっきりしていませんが、当時は、染井通りに面して建っており、丹羽邸内に移築した時と、染井通り側にマンションを建てるため現在地に曳家(建物を解体しないで、そのまま場所を移動させること)した時の少なくとも二回移動しています。また昭和一〇年(1935)の母屋の増改築とあわせて門の屋根を、杮葺き(薄い木片を重ねて敷きつめた屋根)から瓦葺きに葺き替えたといわれています。一方、親柱、冠木、袖戸、両開き扉などは杉で当初からの部材とかんがえられ、板扉にみられる技法から、建築当時の姿を概ね残しているといえます。
江戸時代の腕木門としては区内で唯一の事例であり、植木の里・駒込の歴史を物語るシンボル的存在として長年地域の人々に親しまれています。
このように、染井の植木屋として活躍した旧家の遺構である旧丹羽家腕木門は、豊島区における貴重な文化遺産であることから、平成一九年八月三日、豊島区指定有形文化財になりました。
染井植木の里
豊島区駒込三・六・七丁目付近は、昔、染井村と呼ばれており、江戸時代から植木の一大生産地として知られていました。嘉永七年(1854)に発行された「江戸切絵図」に「此辺染井村植木屋多シ」と書かれるなど、植木職人が数多く住んでいた地域です。
万延元年(1860)に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンは、この辺りの様子について「交互に樹々は庭、恰好よく刈り込んだ生け垣がつづいている、公園のような景色に来たとき、随行の役人が染井村にやっと着いた、と報せた。そこの村全体が多くの苗樹園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が一マイル(約1.6キロ)以上も続いている。私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。(『江戸と北京』)」と述べています。
この土地のもとの所有者である丹羽家は、天明年間(1780年代)から明治後期まで、この染井を代表する植木屋として活躍していました。代々「茂右衛門」を襲名して、造り菊、石菖、蘭、ツツジなどを得意とした植木屋です。津藩藤堂家や尾張藩などの大名屋敷にも出入りするなど、武家にも信用を得ていました。八代目茂右衛門(明治二十九年生れ)の代で植木屋をやめましたが、当地域の旧家として知られています。
敷地内にある門は、江戸時代後期の創建で、豊島区の指定有形文化財となっており、昭和十一年に建てられた蔵は国の登録有形文化財になっています。
ワシントンD・Cから里帰りしたソメイヨシノ
真言宗豊山派の寺院で、藤林山歓喜院と号し、西ヶ原無量寺の末寺である。
本尊は、徳一大師の作といわれている木造阿弥陀如来立像である。創建の年代は明らかでないが、「江戸切絵図」や「江戸名所図会」・「新編武蔵風土記稿」などにも記事があり、駒込に江戸時代から続く寺院である。
この寺が位置する染井地域は、江戸時代、大名屋敷が多くあり、近くに津藩藤堂家の下屋敷があったことから、その祈願寺となっていた。また、近隣には植木屋も集住しており、その菩提寺ともなっていた。
かつての境内地は、非常に広大であったが、明治維新後に縮小されたといわれている。
境内には、明暦元年(1655)に造られた六地蔵がある。これは「六道」すなわち地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道について教えを説くための六体の地蔵が刻まれたものであり、豊島区内では最古のものである。
墓地には、徳川将軍家の御用を務めた植木屋として名高かった伊藤伊兵衛政武(4代目、宝暦七年(1757)年没の墓がある。政武は樹仙と号し、『増補地錦抄』などを著わした、江戸時代の先駆的な植木屋である。この墓所は、東京都史跡に指定されている。
江戸時代中期の園芸家。政武は江戸の北、染井村(現在の豊島区駒込6、7丁目付近)の伊藤三之丞の子として延宝四年(1676)に生まれた。号を樹仙という。伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、近くの伊勢津藩藤堂家の下屋敷に出入りして、庭の世話をしているうちに植木屋となり、江戸第一の種苗商となった。その種苗目録を『地錦抄』という。4代目の政武は江戸城にも出入りして将軍吉宗の御用植木師となり、城内の植木を管理していた。日本の園芸が独自に発達したのは江戸時代であり、キク、ツバキ、カエデ、ツツジ類、アサガオなどの園芸植物が改良され、また、朝鮮や中国をはじめ外国からも多くの植物が輸入されている。政武は特にカエデを好み、深山楓に舶来の楓を接き木することに成功した。
写実的な絵画を得意とし、園芸植物に関する著書に『草花絵前集』『増補地錦抄』『広増地錦抄』『地錦抄附録』などがある。宝暦七年(1757)十月二日81歳で死去した。
続く。