2019/07/18 02 久我山散歩 03 民間信仰石塔/高井戸警察署/大宮前春日神社/慈宏寺/宮前公園/庚申塔

まだまだ北に進む。



民間信仰石塔




 ここに建立されている石塔は、延宝六年(1678)・元禄九年(1696)銘の庚申塔です。
 庚申信仰は、「長生きするためには、60日に1回めぐってくる庚申(かのえさる)の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。江戸時代には、本尊を青面金剛とし、不見(みざる)、不聞(きかざる)、不言(いわざる)の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになりました。
 この辺りは、かつては大宮前新田といわれ、江戸時代の寛文年間に、砂川道(五日市街道)沿いの新田村として開村しました。そして、この場所は大宮前新田の地番の振り出しで、当時から慈宏寺の寺有地となっています。
 ここの庚申塔は、開村後地域の人々が悪疫退散、村内安全等を祈願して建立されたものと思われます。延宝六年の石塔には13名、元禄九年の石塔には31名の建立者の氏名が刻まれています。
 なお、ここからは昔、富士山が見えたので富士見浦と呼ばれました。塔わきの藤の木は「庚申の藤」と呼ばれ、昭和5年から43年まで、都天然記念物に指定されていた樹齢約300年の古木で、庚申塔建立と同じ頃植えられたものと伝えられています。
私たちもこのような文化財を、一層大切に守りつづけたいものです。





◆高井戸警察署



正面は反対側のようだ。



◆大宮前春日神




 この神社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡大宮前新田の条に春日神社とあって、「除地・二段五畝六歩・小名本村にあり、神体は木の坐像長五寸許・太神宮八幡を相殿とす。木の坐像各長五寸許、覆屋一間半四方、内に小祠を置、当村の鎮守にして、例祭は十月廿二日に修す、慈宏寺持」とあるように旧大宮前新田の鎮守で、大宮前開村の万治年間(1658?1660)に、農民井口八郎右衛門の勧請によって創建されたと伝えられています。
 祭神は、武甕槌命経津主命天児屋根命・比売命の四柱です。
 本社は、明治五年十一月に村社となり、拝殿は明治十年、本殿は明治二十一年の建築です。
 境内末社第六天神社、御嶽神社・稲荷神社があります。
 境内の石燈籠二基は文久二年(1682)十月の造立です。
石造りの大神鹿一双は明治二十七年四月に、小鹿一双は明治三十三年四月に、それぞれ氏子の奉納といわれています。
 社殿前の「大宮前鎮守」の石碑は、この地域の地名変更に伴って”大宮前”の地名を保存する意図で造立されたと言われています。
 本社では、元下高井戸八幡神社宮司斎藤近大夫の指導によると伝えられる”早間の大宮前ばやし”が、今も郷土芸能として例祭日に奉納されます。



三峰神社



第六天社/豊國稲荷神社



板絵着色雷神図




 本絵馬は、文久元年(1861)に旧大宮前新田名主・井口氏より奉納されたもので、絵師は狩野洞月詮信です。図柄は北野天神絵馬を模し、左上に荒れ狂う雷神・右下には清涼殿風の建物と人物を描いています。雷神の描き方や右上の松の大樹は典型的な狩野派の手法を表しています。この絵馬は雨乞いないしは厄除の祈願として奉納されたものと思われます。幕末における狩野派の青年記作品としてだけでなく、数少ないこの地域の庶民信仰を示す資料として大変貴重なものです。



楽殿


鳥居





◆慈宏寺




 井口山慈宏寺は日蓮宗です。寛文十三年(1673)に創建、開山は南大泉妙福寺の慈宏院日賢上人、開基は大宮前新田開墾の名主井口杢右衛門、檀家は新田開発に力をそそいだ人々が主体となりました。
 当山安置の「荒布(あらめ)の祖師」について、江戸名所図会にはつぎのように書かれています。
 弘長元年(1261)日蓮上人が伊豆の伊東に流される時、日朗上人は「是非おともに」と願いましたが許されず、鎌倉に留まり日蓮聖人の無事を日夜懇願しました。ある日、浜に荒布を巻きつけた流木を見つめて持ち帰り、日蓮聖人の影像を二体彫り上げました。
 一体は座像で、目黒区の法華寺に安置され、後に堀之内妙法寺に移されました。もう一体は旅姿の立像で、当山の「荒布の祖師」です。
 創建当時の伽藍は明治十一年に焼失、現在の堂宇は昭和四十七年に建立されました。釈迦如来などの仏像と「荒布の祖師」は昔のままです。
 なお、当寺には明治八年高井戸学校の前身である郊西学校がおかれました。





木造馬頭観音立像
 本像は、通常の馬頭観音のような忿怒相ではなく穏やかな顔立ちで、図上に馬頭と小さな化仏十一面を配し、左右十三づつの腕をもちます。馬頭観音十一面千手観音が合体したような作例は珍しく、研究資料としても価値が高いものです。
 また、本像は明治初年に廃寺となった松庵村の円光寺の本尊であったといわれ、明治十一(1878)年に慈宏寺の火災で、旧円光寺の本堂を移築した際に本像も慈宏寺に移されたと伝えられています。廃寺となった円光寺の資料としても貴重です。


木造日蓮上人立像
 「荒布(あらめ)の祖師」と呼ばれる慈宏寺の本尊で、着衣姿を掘り出したものです。袈裟の表現が素晴らしく、金泥・緑青・朱などの極彩色で唐草丈や花火が描かれています。坐像が多い日蓮の本尊の中で、立像として〇〇〇かし、肖像彫刻としても秀逸です。
 「荒布の祖師」のいわれは、鎌倉幕府によって日蓮が伊豆へ流刑とされた時、随行を許されなかった弟子の日朗(にちろう)が師を偲んで荒布の巻き付いた流木に掘ったという伝説に寄ります。


〇のところは木が覆っていて読めなかった・・・。



大宮前「當村開起慈宏寺 大檀那」供養塔
 棟寺内の井口家墓地にあります。安山岩製の笠付角柱型石塔で、村の開発と慈宏寺の開創に尽力した先駆者四名の供養のため元禄~享保年間(十八世紀初期)に造立されたものです。造立者は二代目名主・井口八良左衛門です。
 大宮前新田は、初代名主・杢右衛門が父や周辺の有力農民らと幕府領の原野の開拓を請け負い、寛文十二年(1672)に完成させました。その地割は今も五日市街道沿いに残されています。
 本塔は江戸前期の新田開発の由緒を示す資料として貴重です。




「珍木」多羅葉





珊瑚樹





◆宮前公園




庚申塔




続く。