玉川上水沿いに東へ歩いていたが、途中から北上する。
清月山覚蔵寺は日蓮宗の寺で、本尊は十界曼荼羅・宗祖日蓮聖人像です。
当寺はもと真言宗の寺でしたが、慶長年間(1596-1614)に日蓮宗に改宗、中興開山は実成院日相(じつじょういんにっそう)と伝えられています。
当寺に安置されている鬼子母神像は、日蓮聖人の直刻と伝えられています。このことは「江戸名所図会」にも記載されているもので、丈永8年(1271)聖人が龍ノロ法難にあわれる前、馬に乗せられ鎌倉の町を引きまわされて刑場に向う途中、一老女からごまのぼた餅を供養され、そのお礼として手渡したものであるといわれています。この像は江戸時代の中頃に、鎌倉の妙法寺から当寺に安置され、それ以降開運鬼子母神として、人々の信仰を集めるようになり、寺運も大いに栄えたといわれています。
境内の日蓮聖人五百遠忌(おんき)塔は、天明元年(1781)頃に建立されたもので、昭和五十六年(1981)は聖人七百遠忌の年にあたり、それを記念して銅像を建立しています。
また、開山日相聖人塔は三百五十遠忌の年(昭和三十一年)に建立されたものです。
なお、当寺は大本山池上本門寺の末で、現本堂は昭和三十一年に改築されたものです。
◆玉川上水第二公園
◆田中稲荷大明神
下にどんな川が流れているかはわからない。
今度暗渠系のMAPを買おうかなあ・・・。
◆下高井戸八幡神社
この神社は、旧高井戸宿の鎮守で、祭神は応神天皇です。
社伝によると、長禄元年(1457)に太田道灌が江戸城を築いた際、工事の安全を願い、鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を勧請(迎えたてまつる)して創建したといわれます。
本殿は、棟札から弘化四年(1847)の再建であることがうかがわれ、現在の拝殿・覆殿は昭和三十四年(1959)に落成しました。
境内には本社として、天祖神社・御嶽神社・稲荷神社のほか、当神社に功労のあった人々を祀る祖霊者があります。
神田川沿いの台地や斜面では、旧石器時代から古墳時代に至る遺構が各所で発掘されています。当社の近くからも集落跡が発見され、石器・土器などの出土もあることから、古くより人間が居住するのに適した環境であったことが窺われます。
中世以降、村落の発達とともにこの地に神社が奉斎(ほうさい)され、村の鎮守として尊崇を厚くしてきました。
昭和初期まで当社の宮司を務めた斎藤守高氏(現宮司の曽祖父)は、俗に「面芝居」とも呼ばれた神楽の元締めで、芸名を「中村縫之助」といい、鼓・太鼓・三味線に合わせて踊る芸の師匠でありました。
面芝居は、明治末から昭和初期にかけて流行しましたが、今は絶えており、残された数個の面から往時をしのぶことができます。
神楽殿
旧豊多摩郡高井戸村(現在の杉並区上高井戸・下高井戸)付近は、江戸時代に開拓されました。甲州街道に面し江戸にも近く、古くから野菜の産地でした。
キュウリは明治になってから大量に消費されるようになりましたが、高井戸キュウリは「節成り」といって、親づるの節ごとに雌花をつける性質があり、栽培がしやすい品種で、明治の中頃から昭和の中頃まで、この地を中心に高井戸節成キュウリと呼ばれ、広く栽培されていました。
南に隣接する旧荏原郡馬込周辺(現在の大田区東馬込・西馬込)では、節成りで果実の下半分が白い、馬込半白節成キュウリが栽培され、北に隣接する旧北豊島郡(現在の練馬区)では、親づるには雌花をあまりつけず、子づるに雌花をつける豊島枝成キュウリが栽培されていて、その合流地であったこの地で両者の長所を持ったキュウリが育成されました。
この特産地も、都市化や、ハウスなどの施設栽培の普及、消費者ニーズの変化などにより、東京農業の歴史に名を止めるだけになってしまいました。
続く。