2021/06/24 足立梅田散歩 09 本木熊野神社/本木氷川神社/本木西児童遊園/吉祥院/扇御嶽神社/祠/星谷浴泉

ここでも細い路地を南北にジグザグ移動しながらゆっくり西へ進む。



◆本木熊野神社








◆本木氷川神社


楽殿









◆本木西児童遊園








吉祥院



 当寺は真言宗豊山派に属し、淵江山吉祥院星谷寺(ふちえさんきちじょういんせいこくじ)と称する。本尊は大日如来である。開山の時期には諸說あるが、室町時代と推定されている。
 『新編武咸風土記稿』には、德川家康かち五石の朱印地を授与されたと見え、家光以下、将軍の代替わりに寺領が安堵された。江户時代は京都・仁和寺を本寺とし、多くの末寺・門徒を擁した中本寺(ちゅうほんじ)であった。その格式により、正月四日に江戸城に年賀のため登城する際、住職が用いた葵纹を付けた駕籠(かご)も現存している。
 当寺は足立区登録有形文化財(建造物)吉祥院旧山門、吉祥院宝篋印塔(寛永五年在銘)、区登録有形文化財(書籍)扁額「渕江山」(宝鏡院宮染筆)、区登録有形文化財(書籍)大般若経(付(つけたり)・迴村什具(かいそんじゅうぐ)、区登録有形文化財(歷史資料)応永年間(1394~1428)銘他の板碑,区登绿有形民俗文化財寬文五年(1665)銘他の庚申塔等くの文化財を有している。



 当寺は真言宗豊山派に属し、淵江山(ふちえさん)吉祥院星谷寺(せいこくじ)と称する。本尊は大日如来(金剛界) である。開山の時期には諸說あるが、室町時代と推定されている。
 『新編武藏風土記』には、徳川家康から五石の朱印地を授与されたとある”。以降、将軍の代替わりごとに寺領が安堵された。江戸時代は京都仁和寺を本寺とし、三十三ヶ寺もの末寺を持っ中本寺であった。 その格式により、正月四日に江戸城に年賀のため登城する際、住職が用いた葵紋を付けた駕籠(かご)も現存している。
 境內には、享保年 (1742) に建立され、平成十四年(2002) に現在地(常念坊) に移築された旧山門ゃ、寛永五年(1628)の銘を持っ宝筐印塔がある。また、本堂内には、元禄六年 (1693)に吉祥院に寄進された木造弁才天坐像、宝永二年 (1705)に十四世義真が購した大般若経 (付(つけたり)・廻村什具(かいそんじゅうぐ))宝鏡院宮(ほうきょういんのみや)が染筆した扁额「渕江山山」などが収蔵されている。他にも、板碑や庚申塔なども多数ある。
 吉祥院に残されたこれらの文化財は、いずれも区の登録文化財となっており、当寺の誇る歴史の重さを今に伝えている。


鐘楼


山門(表)


山門(裏)








◆扇御嶽神社


足立の水セリ

 大きな河川の下流域にあたる足立区には、低湿地帯が多く、本木地区(現在の扇、本木、興野付近)では、豊富な水を利用した水セリ栽培が生まれました。水セリの栽培起源は明らかではありませんが、江戸時代の中頃と言われています。
 セリ栽培の盛んな頃は「一寸一両」といわれ、茎が長いほど高く売れたので、農家は1cmでも長く作る努力をかさね、長いもので50cmにも成りました。冬のセリ田での収穫作業は骨身にこたえたと語りつがれています。しかし、初春の風味をもつ野菜として喜ばれ、農家の大きな収入源となっていました。
 足立のセリは、東京近郊といった優位な条件を背景に「東京セリ」として長く市場を独占していましたが、昭和40年代に入ると、この地域も都市化が進み、セリ栽培も次第になくなりました。
 一方、輸送手段の発達により、セリ栽培は東京から離れた茨城県宮城県等へ技術とともに引き継がれて行きました。


先客









◆祠

何が祀られているのかわからなかった。




足立双葉幼稚園すぐそば。
どのようなものかご存じの方は教えてください。
ぺこ <(_ _)>








◆星谷浴泉

銭湯♪










続く