2020/04/25 池上散歩 04 池上本門寺「本殿」/大坊坂/多宝塔/妙法堂/大坊本行寺/真性寺/実相寺

避けたはずなんだけど、池上本門寺の本殿前に来てしまう。
しかしどんだけ広いお寺なんだろう・・・・。
あとは北西方向に進む。



池上本門寺「本殿」

コロナがおさまったらゆっくりお参りに来ますので、今回は写真だけ。






藤が綺麗だった♪





◆大坊坂




『新編武蔵風土記稿』に「大坊坂、方丈の右の坂なり、大坊へ行く道なればこの名あり」と記されている。本門寺山内西隅の石段坂で坂下に大坊と呼ばれる本行寺がある。


祖師御硯水道






◆多宝塔

大坊坂途中に入口がある。




 宗祖日蓮大聖人の御尊骸(ごそんがい)を荼毘(だび)に付した霊蹟に建つ供養塔。建立は宗祖五百五十遠忌(おんき)を期して行われ、江戸芝ロ(しばくち)講中の本願により、文政十一年(1828)に上棟、同十三年(天保元年)に開堂供養を修している。石造の方形基壇に築いた円形
蓮華座の上に建つ木造宝塔形式の建物で、内外ともに漆や彩色によって華やかな装飾が施されている。塔内中央には金箔や彩色で装飾された華麗な木造宝塔を安置し、日蓮大聖人御所持の水晶念珠を奉安している。
 宝塔形式の木造塔婆は極めて現存例が少なく、当山多宝塔はその中でも最大規模を誇る本格的な宝塔として、極めて貴重な建物である。
 なお、「多宝塔」の名称は建立当初から呼称されているのものであり、文化財としての名称は「池上本門寺宝塔」である。



◆妙法堂

ここも池上本願寺境内のようですね。



◆大坊本行寺






弘安五年(1282)日蓮聖人が入滅された池上宗仲公の館跡。日蓮聖人滅後まもなく宗仲公が館を寄進して本行寺が開創された。日蓮聖人が最後の講義をされたときの「お寄り掛かりの柱」や、亡くなられるとき、一斉に花が咲いたと伝えられる「お会式桜」が境内にある。
 なお、「大坊」という呼び名は、池上本門寺の支院並びに末寺を代表するお寺であるという意味の尊称である。



本行寺文書(非公開)

一、大曼荼羅  ニ十五点
二、古文書    十六点
三、記録書跡類   八点

 当寺に伝存する古文書は、池上本門寺文書の補足史料として重要な意味を持ち、日蓮宗池上本門寺教団史解明の手がかりとして、貴重な存在である。
 特に、中世の当寺および池上本門寺歴代の本尊(大曼荼羅)や、寺門経営に関する書状などが重要。近世では、幕府側の天海・崇伝(すうでん)が、身延山久遠寺の後住職問題に関与した事実を示す書状など、その他いずれも史料性の高い貴重なものが多い。


三十番神画(じんが)像(非公開)

 絹本(けんぽん)、着色、縦107センチ、横54.5センチ。
 この画像は、德川家康の側室、養珠院(ようじゅいん)お万の方の「現当二世所願成弁(げんとうにせいしょがんじょうべん)」のため、寛永十四年(1637)に描かれたことが、日遠(にちおん)(本門寺一六世)の添書(そえがき)によりわかる。また、日顗(にちぎ)の追添書、および同じく日顗の別紙添状(そえじょう)に、紀州心行(しんぎょう)院の常什物(じょうじゅうぶつ)であると記されており、その後、いつの時代にか、この地に移されたものであろう。
 その由来とともに、江戸初期のこの種の作品の画風をよく示しており、貴重な画像といえる。



正応三年の題目板碑と板碑群(非公開)

 当寺には池上本門寺境内に散在していた板碑が四十余基ある。
 この附近一帯(池上本門寺周辺)は、題目板碑の密集地として、わが国でも屈指の地といえよう。
 年代のわかっている板碑の中で、特に正応三年(1290)のものは、題目板碑として最古のものである。
 この板碑は上半部が欠失しているが、その大きさや銘文から、全長150センチはあったと推測される。池上本門寺の開創(かいそう)大檀越(だいだんえつ)、池上氏一族と何らかの関係があったものと思われる。



日 蓮聖人坐像(非公開)

 像高56.7センチ、木造寄木造り、彩色、玉眼。胎内腹部に「武州立花之群稲毛之庄澁口郷施主尾曽川忠盛(花押)仏師鎌倉伊予守」と墨書銘があるが、記年はない。渋口郷は現在の川崎市高津区子母口で、この地の旧家小(尾)曽川氏は同所の日蓮宗円融寺の檀越で、同寺の墓域には同氏の先祖の五輪塔などが今も残されている。
 円融寺の開山は池上本門寺九世日純(1482~1550)で、大坊本行寺から栄進した僧である。おそらく小曽川氏との信仰関係が深かったに違いな
い。本像は、円融寺が開創されたと伝えられる天文三年(1534) = この年の十ニ月大坊も焼失=からそう時代を経ない中世の作品と考えられ、鎌倉仏師の作風を示す日蓮像としても注目されよう。




日蓮大聖人御入滅之霊




日蓮上人入滅の旧跡
 日蓮上人(聖人)(1222~1282)は、日蓮宗の関祖であり、「立正安国論」等の著作で知られています。日蓮は、文永十一年(1274)に鎌倉を去り、甲斐国身延山に宗教活動の場を移していましたが、弘安五年(1282)、病の悪化により常陸国へ湯治療養へ向かう途中、武蔵国千束郡池上右衛
門大夫宗仲の館(現本行寺境內)で示寂しました。
 なお、病中の日蓮が、身延山を発って池上の地へ移ったのは、法華経を説いた釈尊が霊驚山(りょうじゅせん)から艮(うしとら)、すなわち北東の方角に当たる純陀の家で入滅した故事にならったとする説もあります。



立正安国論を調べてみた。
日蓮が執筆し、文応元年7月16日(ユリウス暦1260年8月24日、グレゴリオ暦1260年8月31日[1])に時の最高権力者にして先の執権(得宗)である北条時頼鎌倉幕府第5代執権)に提出した文書。 』
とあった。
立正安国論 - Wikipedia



池上宗仲夫妻坐像(非公開)

 寄木造、彫眼、像高各約21センチ。
 本像の寄進者は丹波屋半兵衛、開眼(かいげん)の導師は身延山久遠寺三十三世日亨(にっこう)で、正德四年(1714)に造られたことが、台座の銘文によってわかる。
 よく祖型を残し、後補された様子もなく、小型ながら肖像彫刻として極めて精巧なものである。
 体内には墨や金泥で記した曼荼羅本尊等の小紙片が納められているが、筆者は不詳である。
 宗仲夫妻は日の大檀越(だいだんえつ)(篤信者(とくしんしゃ))であり、日蓮が夫妻の屋敷で入滅したの は有名である。



萬霊供養塔



宗祖御灰骨堂



於着高祖日蓮大菩薩



正一位瘡守稲荷大明神



稲荷大明神



毘沙門堂



御硯井戸

此の硯井戸は日蓮大聖人が弘安五年九月十八日甲州身延山より此の地に御到着になり御使用になった冷水であります






◆真性寺




寬永二年(1625) に本門寺十六世日遠聖人によって麻布今井町に開創された。
当寺に安置されている帝釈天像は、もと十二代将軍徳川家定の侍医佐竹文好の屋敷にあったもので、安政三年(1856)に当寺に遷され、幕末より大正期にかけての庚申日には麻布の帝釈天とよばれて縁日の市が立ち大いに賑わったという。
戦災で全焼したため、昭和二十七年(1952)現在地に移り再建された。






◆実相寺




天文十九年(1550) 江戸馬喰町に開創。明暦三年(1657)明暦の大火の後、浅草新寺町に替地を拝領して移転。寛保三年(1743)に呉服商「大丸」の店主の帰依を受け大丸寺とよばれた。大正十二年(1923) 池上の妙玄庵と合併して現在地に移り堂宇を建立。妙玄庵は本門寺二十四世 日等聖人が隠棲した庵室で、享保十二年(1727)大坊坂のそばに創建され、妙玄坊、要玄坊ともよばれた。



境内社「?」

何が祀られているのか調べてもわからなかった。



山門


続く。