池上駅周辺から池上本門寺の東側エリアへ
池上本門寺は人がいっぱい居そうだったので今回もパスした。
◆池上会館
池上会館の裏手は斜面になっていて屋上部分は反対側から坂を登って行く事が出来た。
南谷檀林(なんこくだんりん)「板頭寮(ばんとうりょう)」遺構(非公開)
南谷檀林は、池上本門寺に付属する僧侶の学校として、元禄期(1688~1704)に、本門寺の南方(寺窪、南窪と称せられる地)に開創された。
『新編武蔵風土記稿』によれば、檀林は、講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座(しゅざ)寮、所化(しょけ)寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていた。
現存している建物は、檀林の事務所に当たる「板頭寮」で、板頭(事務経営の長)の居室でもあったとされる。江戸後期の天保七年(1836)、池上山内の木を用いて建てられたと伝えられる。
当院の庫裏(寺の台所、居室)、書院として利用されてきたため、増改築が行われているが、屋根は昭和五十年(1975)、保護のため銅板で覆う工事が行われるまで、茅葺きであった。
南谷檀林諸堂の棟札(非公開)
南谷檀林は、元禄期(1688~1704)に、池上本門寺に付属する僧侶の学校として、ニ十二世日玄によって開設された。
檀林の施設は、現存する板頭寮(檀林の事務所)のほか に、講堂や学僧の諸施設が建てられ整備された寺観を有していたという。
現存する14枚の棟札は、すべて曼荼羅本尊の形式であり、建物の建築、修復の年代や施主等の名が記されている。これらから、講堂は元禄元年(1688)に建立され、寛政六年(1794)再建されたこと等がわかり、貴重な資料である。
古文書(照栄院文書)(非公開)
古文書 27点
古記録 2点
大曼荼羅本尊類 47点
絵画 7点
照栄院は、日朗が隠棲した庵室として、正応四年(1291)に開創されたと伝えられる。大坊本行寺理境院と並んで池上本門寺塔頭三院家の一つとして、
重要な役割を果たしてきた。
元禄年間(1688~1704)僧侶教育のため池上南谷檀林が開設された。
南谷檀林に関する史料もあり池上本門寺関係の史料もあり、日蓮宗教団の歴史を知るうえで、貴重な史料を多く伝存している。
日郎聖人坐像(非公開)
桧材寄木造、彩色、玉眼、像高42センチ。
日朗(1243~1320)は、日蓮の直弟子であり、本門寺ニ世、照栄院の開山である。
像底の墨書銘から、元和七年 (1621)に造られ、本門寺十六世の日樹(1574~1631)により開眼されたことが知られる。江戸時代前期の典型的な肖像彫刻で、区内に現存する開山像の中でも最古に属すものである。また「不受不施(ふじゅふせ)派」の中心人物であった日樹の自筆銘文が記された像としても注目
される。
照栄院は、 日朗が隠棲した庵室の旧跡として、正応四年(1291)に開創されたと伝えられる。
三宝尊像(さんぽうさんぞう)(非公開)
桧材寄木造、金箔押、彩色。
「南無妙法蓮華経」の題目を浮彫りにする塔婆の左右に多宝如来と釈迦如来の坐像を配している。
日蓮宗の本尊の祀り方の一つで、一塔両尊とも呼ばれる形式で造像されている。
台座裏の墨書銘から、天正三年(1575)、御園村(現.西蒲田) の豪族月村宗観の逆修供養のため造立され、照栄院六世の日説が開眼したことが知られる。
月村宗観には、葬式の時、大落雷があり、その右腕をつかみ取り去られたという伝説があり、その存在を実証する資料である。昭和末年頃まで、月村家の内仏として伝存してきた。
慶安元年(1648) 松平右京大夫隆政の母、養源院殿妙荘日長大姉の発
願により、荏原郡浜竹村にあった本成寺を松平家の所有地であった当地
に移し養源寺と改称、開山に本門寺十八世 日耀聖人を迎えた。享保四年(1719)、同六年(1721)の二度、八代将軍吉宗が鷹狩りの際には御膳所になったという。文化元年(1804)火災で全焼し、以後智海院日勝尼を初代として、昭和二十年(1945)まで尼僧寺であった。池上七福神の一、恵比寿さまを犯る。
続く。