ここでも池上本門寺東側エリアを北上。
神楽殿
法養寺文書 〈一括〉(非公開)
本寺は妙経院日等によって天正十五~十六年(1587~88)に神田三河町に開創され、慶長年間(1596~1615)に下谷稲荷町に移転。明治四十三年(1910)に池上本門寺塔頭の妙教庵と合併し、翌年当地へ移った。
法養寺文書を大別すると、(1)日蓮宗歴代上人による「自筆曼荼羅本尊群」、(2)法養寺が江戸城両御丸と大奥の祈祷所であった経緯による「江戸
城大奧関係文書群」、(3)妙教庵が日蓮宗の僧侶教育を担う仮学校であった関係から伝来した「池上南谷檀林(いけがみなんこくだんりん)文書群」、(4)法養寺境内社の「熊谷稲荷関係文書」となる。
池上本門寺を中心とする宗門状況や、近世幕藩体制における日蓮宗と将軍家・大奥との関わりを伝える貴重な史料群である。
元享三年(1323)本門寺三世日輪聖人が、日蓮聖人の故郷安房や、ご自身の故郷平賀を遠く望む当地に庵室をつくり大泉坊と称した。日輪聖人在世中に日徳聖人が再興し心浄院と改称したと伝えられるが、享保年間(1716-1736)の火災で資料を失ったため、その年代などは不明である。また、檀越の小木氏は日蓮聖人が佐渡流罪のとき弟子の日朗聖人に教化された島民で、日朗聖人を慕い池上に住み当院を興したとも伝えられる。
寛永十九年(1642)以前の開創。備中庭瀬藩主戸川逵安が本門寺十六世日遠聖人に帰依して自らの下屋敷五千坪を聖人の隠棲地として寄進し、日遠聖人の弟子日東聖人(本門寺十七世)により堂宇が完成した。当初は日東聖人の院号にちなみ蓮乗院とよばれた。その後、お万の方の孫芳心院(紀州家初代徳川頼宣の娘、鳥取藩主池田光仲の妻)の帰依を受け、永寿院と改称。宝永五年(1708)に没した芳心院の墓所は「万両塚」とよばれている。
戸川逵安(とがわ みちやす)墓
現地に説明板がないため、ハッキリとはわからなかったが、おそらく合っていると思う。
「戸川 逵安」をwikiで調べてみた。
『戸川 達安(とがわ みちやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。当初は備前の宇喜多氏の家臣(知行2万5,600石)であったが出奔、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その功により備中庭瀬藩初代藩主となる。 』
とあった。
戸川達安 - Wikipedia
妙見菩薩立像(非公開)
木造寄木造り、玉眼、彩色、箔押。像高43センチ。
この像を安置する厨子扉(ずしとびら)に記された銘文から、寛文四年(1664)に、徳川家康の子で紀伊德川藩の祖である頼宣(よりのぶ)の「現世安稳後世
善処(げんせあんのんごせぜんしょ)」を祈念して造像されたことがわかる。
像背に、当時の本門寺貫主、日豊(にっぽう)(1600~1669)の開眼墨書銘がある。製作年代、由来等が明確な妙見像として貴重である。
頼宣の妻、瑤林院(ようりんいん)(加藤清正の娘)が、本門寺に寄進したもので、元禄期(1688~1704)に、南谷檀林(なんこくだんりん)(僧侶の学校)が開設された際に、その守護の尊像として当院に移管されたものである。
チャンギー殉難者慰霊塔
妙見堂のHPに、
『 第二次世界大戦の後、シンガポールのチャンギーではBC級戦争犯罪人とされた日本の軍人軍属の裁判が行われました。
多くの被告が極刑を宣告されチャンギーに於いて処刑されました。照栄院の前住職田中日淳上人は教誨師として、その処刑に立ち会いました。
幸いにして極刑を免れて日本に帰国した人々が相談して、妙見堂の地に慰霊碑を建立しました。
以来、毎年4月の第2日曜日に、慰霊祭が営まれています。 』
とあった。
チャンギー殉難者慰霊塔|妙見堂|日蓮宗 池上院家 照栄院
『大日本名所図会』には「妙見堂、妙見坂の上にあり。妙見大菩薩を安置す。寛文4年甲辰7月紀伊頼宣郷の造立せし所なり。即ち照栄院の鎮守とす』とあり坂名はこれに因む。
また 照栄院には元禄期に南谷壇林が開設された。本門寺に寄進された妙見菩薩立像は のちに壇林の守護鎮守として、坂上のお堂に移されたと伝えられる。
続く。