◆大田区立六郷図書館
当社は、多摩川の清流に南面する古い八幡宮であり、六郷一円の総鎮守としてひろく崇敬されています。
社紀によれば、源頼義・義家の父子が、天喜五年(1057)この地の大杉に源氏の白幡をかかげて軍勢をつのり、岩清水八幡に武運長久を祈っ たところ、士気大いにふるい、前九年の役に勝利をおさめたので、その分霊を勧請したのが、当社の創建とされています。
文治五年(1189)源頼朝もまた奥州征定のみぎり、祖先の吉例にならって戦勝を祈り、建久二年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。今なお境内に残る大きな手水石には、このとき頼朝が奉献したものであり、神門前の太鼓橋は景時の寄進と伝えられます。
天正十九年(1591)11月、徳川家康は18石の朱印地を寄進し、慶長五年(1600)六郷大橋の竣功に際しては、神威をたたえてまつり、当社の神輿をもって渡初式を挙げました。また鷹狩りの途次にもしばしば参詣したと史書にみえます。当社が巴紋とともに葵紋を用いている所以です。
江戸時代には六郷八幡宮とも呼ばれていましたが、明治五年(1872)に東京府郷社に列し、同9年より六郷神社と改称して今日に至っています。
なお当社には、毎年1月7日に行われる流鏑馬(東京都無形民俗文化財)と、6月の祭礼時に少年少女が奉仕する獅子舞が伝承されています。
「江戸時代名所図会」に描かれた六郷八幡宮
社殿正面の道が、慶長六年(1601)に幕府の 制定した古い東海道で、松並木が続いていました。 これが西方に付け替えられたのは元和九年(1623)といわれます。このとき、神域を囲ってい た構掘の一部を埋めて、脇参道ができました。 往還の両側に並んでいるのは八幡(はちまん)塚村の人家で、 脇参道の鳥居からやや南寄りに、日本橋から四里 (15.6km)の一里塚と、その前に高札場が描かれています。東方はるかに連なるのは房総の山山で、右手には川崎大師の屋根も見え、辺り一面は水田です。
社殿の上の方にひときわ大きくめだっているの は、今も境内にある塚で、八幡塚あるいは神輿塚と呼はれ、竹林に囲まれていた様子がうかがえます。かつて六郷六か村の中心をなし、当社の宮本でもあった八幡塚村という村名は、この聖なる塚に由来します。「近代に及んで東海道は第一京浜国道となります が、脇参道付近から六郷橋へ向かう道筋の一部は、 旧東海道の幅員を比較的よく残しています。 ちなみに「江戸名所図会」は、天保七年(1836)に刊行された地誌です。
神楽殿
旧六郷橋の親柱
慶長五年(1600)に徳川家康が架設した「六郷大橋」は真享 五年(1688)の洪水により流失して以来、六郷と川崎間の渡河は186年間の長きにわたり渡し船でした。 明治七年(1874)に八幡塚村の名主鈴木左内が、私財を投じて有料橋を架けました。左内橋も四年後の明治十一年(1878)の洪水により流失しました。
その後、八幡塚村議会の有志七名が川崎駅の有志六名とともに架橋 を共同出願し、明治十六年(1883)「旧六郷橋」が開通しました。
この木橋は明治三十年(1897)に架け替えられ、京浜電気鉄道 (現・京浜急行)へ売却、人と共に電車が木橋を渡りました。しかし明治四十三年(1910)当地を襲った大型台風による洪水により流失しました。
木橋の流失後、東京府と神奈川県が共同で木製の仮橋を架けましたが、交通の発達と共に橋の強度を完全なものにすることが課題となり、 大正九年(1920)両府県折半で鋼鉄製の新橋建設が決定しました。 大正十四年(1925)鉄筋コンクリート製タイドアーチ式の先代 「六郷橋」が開通しました。 昭和元年(1926)に旧六郷木橋の遺構である親柱は、切妻屋根 を付して六郷神社境内に保存されました。建立したのは旧出雲町(田出村)の氏子総代・金子重太郎でした。
時を経て親柱を保護する屋根に傷みが見えるため平成二十六年(2014)金子重太郎の三男・金子重雄と重太郎の孫、東六郷一丁目氏子総代・金子義裕が屋根を更新、修復しました。
この泊犬は、貞享二年(1685)に六郷中町の有志が願主となり奉納された。石工は三右衛門である。 江户中期(十八世紀)以降、造立願意は「現 世利益」とするものが多くなるが、この狛犬 は「二世安楽」を祈った中世的なものであり、 注目される。 また造形的にも他に類例を見ない独創的なもので、素朴かつユーモラスな芸術性に富んでいる。
狗犬としては区内最古のものであり、造立年代が古いにもかかわらず、阿吽ともそろっているのも貴重である。
◆旧東海道跡
続く。