2021/06/20 西新井散歩 03 江北コミュニティセンター/江北氷川神社/地福寺/熊の木ひろば/帝釈天/熊之木排水場/昭文社

やっぱりほぼ荒川沿いに進む。
ここらあたりから針路が北になる。



◆江北コミュニティセンター

足立区の施設、HPがあった。
江北コミュニティセンター|足立区







◆江北氷川神社


茅の輪


幻のさくら 江北匂(こうほくにおい)



「江北匂(こうほくにおい)は幻の桜と言われ、かつて江北村の堤に「五色桜の衰退とともに絶滅したと思われていた。
しかし、近年都立小金井公園にて、接ぎ穂を分けてもらい、数十年ぶりに江北の故郷に里帰りした。
山桜の仲間でほのかな香りがあり、4月中頃に可憐な花を咲かせている。


諏訪神社/安産狛犬

諏訪神社
諏訪神社は、信州諏訪大社から勧請されてきたお社です。ご神体は「大石」であり、珍しく一般の方々でも自由に見ることができます。古代の人々は、「大きな木」や「大きな石」などに神様が宿ると信じておりました。その昔の進行形態を残す貴重なお社です。

安産狛犬
諏訪神社御神体が「大石」であることから、「お食い初めの石」を当社からお分けしております(ご希望の方は社務所まで)、そのご縁で、この狛犬さんは安産守護の神様として信仰があり、出産後に、安産お守りをお返しに来る方が多くいらっしゃいます。
綱に下げてお納め下さい。


恵比寿様








◆地福寺








◆熊の木ひろば




A 旧荒川堤
 江戸時代に作られた、熊谷から向島までの旧荒川(現在の隅田)の堤防です。
 明治時代末の荒川放水路整備などで姿を消し、区内では堀ノ内一丁目から江北二丁目までの、約400mのみが残っています。
 1886(明治19)年に桜の苗が植えられ、多くの人々でにぎわいました。

B 熊之木圦
 圦(いり)とは、水の出霧を調整する水門の事です。
 戦後、神領堀の護岸工事で埋められてしまいましたが、今回の整備で当時の形で掘り起こして復元しました。

C 熊之木橋
 熊之木橋は、アーチ形の石橋で、水面に映るとめがねのような形になるので、「めがね橋」と呼ばれました。
 一度解体した後、今回約40m南側のこの場所に復元しました。


熊之木橋






 この熊之木橋は、江北五色桜の繁栄を祈念し、首都高速道路株式会社様、並びに、カビ式会社テック様のご寄付により復元築造されたものです。


「熊之木」地名と六阿弥陀伝説

 江戸時代中期から昭和初期にかけて、江戸・東京東部で盛んだった習俗に江戸六阿弥陀詣(もうで)がある。主に女性が春秋の彼岸に、隅田川下流地域にあった六ないし八カ所の寺院を参詣するものであった。
 その起源は悲劇女性の伝説に由来する。荒川(現在の隅田川)を挟んで足立郡と豊島郡の豪族同士(寺院縁起による苗字に諸説あり)が婚姻を結んだ。しかし嫁ぎ先との折り合いが悪くなった女性が実家に帰される途中、夜をはかなみ荒川に身を投げた。女性の冥福を祈るため、父親は紀伊国和歌山県)熊野山に詣でた。その山中で光輝く一本の霊木を得て、熊野灘に流すと不思議なことに東国まで漂流し、荒川をさかのぼって漂着した場所が旧沼田村のこの付近であったという。熊野産の木がたどりついて奇縁により、「熊之木」地名が付いたと伝わる。その後、霊木からは、女性の父親に依頼された僧行基によって六躯(一説に八躯)の阿弥陀如来像等が彫刻され、近隣の六ないし八カ寺に安置され女性の菩提がとむらわれた。各寺院は後に江戸六阿弥陀詣札所になったという。
 十九世紀前半に著された地誌『遊歴雑記』等には、霊木が着いた場所を「熊野木」とする記述が見える。また文政五年(1822)に六阿弥陀四番与楽寺が刊行した『武州江戸六阿弥陀巡拝之図』には、「熊の木」の位置が明示され江戸六阿弥陀詣参詣路の名所となっていた様子がうかがえる。
 旧沼田村の「熊之木」地名は近代以降、熊之木橋・熊之圦(いり)・熊之木排水場に残り、六阿弥陀伝説をしのぶようすがとなっている。



石塔







帝釈天








◆熊之木排水場







昭文社

『株式会社昭文社(しょうぶんしゃ)は、東京都千代田区麹町3丁目に本社を置く地図の出版社。道路地図や旅行ガイドブック(まっぷる)などで知られる。 』
昭文社 - Wikipedia

最近はgoogle mapを使っているけど、こちらの地図にはお世話になったなあ。





続く。