2020/03/17 羽田散歩 02 羽田神社/正蔵院/大師橋/羽田第二水門/高速大師橋/羽田の渡し/前河原児童公園

多摩川大師橋までやってくる。
その後は多摩川に沿って東へ進む。


◆羽田神社



八雲神社之碑



 かつて「疱瘡」(天然痘)は、子供たちにとっ て最も恐ろしい病気であった。人々はこの 「疤瘡」に対して畏散の念を表し、その原因 を「疱瘡神」によるものとして崇め祀って きました。
  羽田神社には、社殿右側に「疤瘡除祈願 御札の碑」があり、この碑は天保十二年に、 将軍家定が疱瘡治癒祈願に訪れた事績によるものです。この参拝により流行病が治癒したことから、病気平癒の神としても信仰 され、病気平癒や身体健全を願う多くの参拝者が訪れています。震災や戦災を逃れ、 石碑は当時の姿を保っているものの、現在は保護のためフェンスで覆われています。

石碑には、次の言葉が刻まれています。
八雲神社之碑蒲田梅木堂主仙鶴隠士謹識
羽田村羽田神社境内羽田村 社務所

当村氏子の輩十五歳以降は男女とも疱瘡すべからず、
たとの十五歳以前なりともかならず安全に致す事にて、
ひとへに大神の神力加護にあづかる処なり、
依て信心の飴々氏子加入の志これある輩、
社務所へ申出られ、御札守木差し可申候、


鈴納稲荷神社



祭神 宇迎之御魂神   創建年 天明五年(1785年)

羽田猟師町の名主鈴木五
主鈴木五右衛門氏が天明四年(1784年)羽田村名主石井四郎右衛門氏より三町五良より三町五畝の干潟を譲り受け、その周困五十間四方に提防を作り開墾を始めました。名主鈴木弥五右衛門が造成した土地を鈴木新田とし、無事に納まるように鈴納耕地 と名付けました。度々の風雨や洪水で堤防が決壊し住民が困ったので、これを防ぐため屋敷の近くに稲荷社を建立して鈴納稲荷と名付けました。鈴納耕地の安全を祈願しました。 昭和二十年九月二十一日強制立退き後、 昭和三十一年二月(1956年)午の日 現在の地に鈴納稲荷社を建立しました。



増田稲荷神社



祭神 字迦之御魂神   創建年 不詳

環状八号線と高速、横羽線が交わるあたり一帯は徳川幕府中期以降、増田市左衛門が開墾したので増田新田と呼ばれ、近年迄六間堀に増田橋が架けられていました。増田稲荷神社は高速上り線羽田出ロ (現羽田一丁目十番地)付近に祀られていたが戦後、 京急及び道路の拡幅に伴い、関係者、有志の願いが許され羽田神社の境内社として移されま した。 古老の話として、祠の中は子供達が遊ぶ事が出来た親しみのあるお稲荷さん だったとの事です。



日枝神社



祭神 大山昨命(おおやまぐいのみこと)  創建年 江户中期

西町・前河原の守護神として祀られ、文化年間の古文書にも記されている社です。御祭神「大山昨命」は五穀豊譲、家内安全、景気回復にご神徳があると言われています。太平洋戦争で廃失(昭和二十年四月十五日)しまし たが、昭和二十四年、現大田区体育館の所在地にライオ ン株式会社があり、敷地に焼失を免れた社があったのでそれを頂き羽田ニーニ八ー五に再建いたしました。
その後昭和三十六年、両町会の合意により、 羽田神社に合祀を願い、許されて境内社となりました。別名「山王さん」と呼ばれ、 神使いは「お猿さん」で町民から親しまれ毎年四月二十九日に社前祭が行われてい ます。



羽田稲荷神社



祭神 宇迦之御魂神   創建年 不詳

現つばさ高校辺りにあった井上軍左衛門宅の庭内神社として祀られていましたが、引っ越しに際し昭和五十五年十一月、羽田神社境内末社となりました。 御祭神は伏見稲荷神社から分霊をいただきました。



鳳輦庫



富士塚



 富士塚は、富士山の信仰団体である富士講の講員たちが、その年実際に富士山に登れない者のために、富士山を模して築いた人造の小山である。この塚は、大田区で 唯一の存在で、俗に「羽田富士」と呼ばれ、明治初年に築造されたと伝えられる。
 富士講の人々が富士山に見立てた富士塚を登詣習俗は、江户中期の安永(1772~1780)の頃から、関東を中心として各地に起こったといわれる。羽田ではこの習俗が昭和五〇 年代頃まで、毎年七月一日の山開きに 行われていた。





夫婦擬宝珠



平成二十三年三月十一日(金)午後二時四十六分「東北地方太平洋沖地震が発生しました。
地震により発生した津波やその後の余震により引き起こされた大規模な地震災害は東北地方に甚大な被害をもたらしました。
当社も被災し「灯籠例壊」「神奥殿屋根瓦落下損壊」「樹木倒壊」等の被害がございました。
運良く参拝者が通らず、大きな事故に繁がらなかったのは、大神様のご加護かと存じます。
この灯籠擬宝珠は倒壊の際、参道上に内側へ寄り添う様に落下しました。
羽田神社の御祭神は「須佐之男命」と「稲田姫命」ご夫婦二柱です。
落ちて尚寄り添う「夫婦擬宝珠」は「愛」の象微です。ここに奉鎮し、被災地の復興と穏やかなる未来を祈念致します。


神輿殿




此の神輿殿及び殿内に率安されてある大神輿は 羽田に居住せる鈴木久藏・静枝氏夫妻及び鈴木源八郎・昭子氏夫妻父子が奉納されたものである。
一、神典殿の内部は完全防湿設備を施し、又、 神輿の出し入れを円滑にするために特別な装置を備えた近代的、且、合理的な神舆殿である。 一、神輿殿及び大神輿は宮師安田兼吉氏が八力 月の月日を費して謹製されたものであり、 これが仕様は台の幅四尺、全高九尺五寸、 屋根幅七尺七寸、重量五百貫、縦棒の長さ 二十五尺、横棒の長き十二尺あり東京屈指 の大神輿である。
一、中神輿は昭和二十年四月従来の大神輿が戦災により焼失後、昭和四十二年七月羽田仲 七町会より奉納されたものであり、爾来夏季例大祭には当神社の神輿として氏子内を巡行していた。
 このそれぞれの偉業を称え、永く後世に伝える ものである


鳥居




正蔵



 当寺の本尊である。江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」には、宝徳二年(1450) 住職重仙の時と文禄四年(1595)乗信の時に修復されたと記されている。
造像された年や作者等は不詳であるが、その様式から、十五世紀中頃の製作と考えられ、 区内に伝存する仏像の中でも古いものの一つ と推定される。



山門



大師橋





◆羽田第二水門



◆高速大師橋






◆羽田の渡し



 古くから、羽田漁師町(大田区)と殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が存在していたという (現在の大師橋下流、羽田三丁目で旧城南造船所東側あたり)  
 この渡しは、小島六佐衛門事島六佐衛門組が営んでいたのて、「六佐衛門の渡し」とも呼ばれていた。
 渡し場付近の川幅は約四〇間(約80m)ぐらいて「オーイ」と呼ぶと対举まで聞こえたという。
 その昔、徳川家康が狩りに来た帰りに、お供の者と別れて一人てこの渡し場に来たところ、松頭は家康とは知らずに馬のアブミを取ったという伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し船は、二〇一三〇人の人々が乗れるかなり大きなものて、この船を利用して魚介類、農産物、衣料品など、生活に必要な品々が羽田と川崎の間を行き来していた。
 江戸の末には、穴守稲荷と川崎大師参指へ行き交う多くの人々が、のどかで野梅の多かった大森から糀谷、羽田を通り羽田の渡しを利用するため、対岸の川崎宿では商売に差しつかえるので、この渡しの通行を禁止して欲しいと公儀に願い出るほどの賑いをみせていたという。
 また、明治後期から昭和初期にかけて、川遊びをする船も住来していた。
 物資の交流だけでなく、人々の生活、文化の交流など大きな貢献をしてきた羽田の渡しは、時代の変化とともに多くの人々に利用されたが、昭和十四年に大師橋が開通したことにより廃止された。


多摩川八景 多摩川の河口

山梨県塩山市笠取山から河口まて138kmの旅を終えて多摩川は、東京湾に注いでいます。
羽田空港や工場、河原にせまる住宅といった人工環境と、ヨシの茂る中洲、野鳥のむれ、千潟に遊ぶ力ニの姿などの自然環境とが調和し、多摩川の安らぎを感じさせます。
●中洲や大師橋付近の右岸に見られる汽水性植物の群落は、多摩川独特のものです。
※汽水性植物=汽水とは淡水と海水がまざりあってできた塩分度の低い水のことで、そのような環境に生育する植物をいいます。



◆前河原児童公園




続く。