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◆浜竹天祖神社
神楽殿
三德稲荷神社の縁起と由来
祭神 宇迦之御魂命(別名 倉稲魂命・稲荷神) 出雲國(地祇族) 穀霊神・農耕神・商工業神
父名 素盞鳴尊(すさのおのみこと) 母名 神大市比壳命(かじ おおいちひめのみこと) 兄名 大歲神(おおとしがみ)
社格 本社殿 正一位伏見稲荷神社
立 宝曆六年(1756年)
殿 瓦葺 流れ造り(昭和四十年竣工) 京都伏見稲荷神社(稲荷山・三德社末社)
利益 商売繁盛・家內安全・火災・災難除け・子孫繁栄・学芸成就・芸能上達
合社
天満宮(祭 神) 菅原道真(学問の神)
糀谷観音堂(ご本尊) 聖観世音菩薩(別名・みそ観音)
観音堂地蔵尊 |踏切死亡事:踏切死亡事故から命を落とされた人達の魂をとむらう為、安置致しました。
三稲荷神社の縁起
三德稲荷神社の名前が初めて現れたのが宝暦六年(1756年)浜竹村に建立されると記されておます。
(糀谷史の記述)実際、三德稲荷神社にも伏見稲荷大社よりの書き付けがあり。その文面の年号記載には宝暦八年(1758年)二月七日武州六郷村浜田(浜竹)新井(荒井)五郎佐衛門宛てに従五位上 摂津守荷田宿禰春郷と記載。
その事により神社は宝暦六年(1756年)に建立された事を物語っております
その後、明治から大正と至り、先の関東大震災(大正十二年)で神社は消滅。大正十三年に三徳稲荷神社を再建。
その後、先の大戦で再び、神社も御典も全て焼失しました。
戦後はアメリカ軍の占領により、神社は跡形もなく、また神社の土地はアメリカ軍に接収され、返還後に小さな神社を再建しましたが物資のない時代のため痛みが激しくなり、昭和四十年に現在の神社が氏子達の協力により建立され現在に至っております。
三德稲荷神社の「名 前」の由来
三徳とは「三つの徳を授ける」と言う意味であり、その実は(七福神)の福禄毒が起源とされております。中国、|宋の時代(60頃~1279年頃)に現れた実在の導士。天南星(年齡は数千歳であったと言う)の化身や南極星の化身(南極老人)とされております。
又、泰山府君(たいさんふくん)であるとも言われる。「泰山」とは中国の五山の一つで、その神が「寿命」を司る事から関連つけられた様である。泰山府君信仰が伝わり、福禄毒が長寿の神として信仰された。
「福」 幸運 になりますように
「禄」 封禄 が授かるように
「壽」 長生 き出来ますように
と言う願いを叶えてくれると言う「三つの徳」であります。
行事
初午祭 二月に入って初めての午の日(稲荷山に鎮座した日)
お祀り 九月第一土曜,日曜日 浜竹神社と一緒に行う。
伏見参拝 十一月十八日 伏見 三德社の火焚祭に参加。
お焚き上げ 十二月三十一日
◆糀谷観音堂
◆糀谷地蔵菩薩
糀谷地蔵堂の由来
此のお地蔵様は今から二百九十四年前に武州荏原郡椛谷村の現在の地に安置されました。
(享保元年・1716年~宝曆十三年,・1751年)、当時は村の農道の畔に造立されていたと思われます。
昭和二十年四月十五日の京浜大空襲でお堂は焼失しましたがお地蔵像を土中より掘り出し修復して供養致しました。
昭和二十三年頃、有り合わせの資材を集めて仮堂を建て納めたの現在のお姿です。
聞き伝えに依れば此の地蔵尊は人々の災難を身替りして頂け菩薩です。
又、村人達が朝な夕なに無病息災をお祈りした道筋です。戦前戦後
亡き人々の供茂の為にお祈りしたのも此の地蔵様です。
今のお堂は平成八年に本山のお許しを受けて建立致しました。
家内安全・子育て・世の中が平和で幸福な生话が出来ますように御守護と功徳を頂ければ幸いです。
続く。