2020/11/26 練馬中村散歩 02 良辨塚/中村御嶽神社/中村八幡神社/稲荷神社/田中稲荷神社/地蔵尊

このあたりからは細い路地をほぼ真南へ向かって歩く。



◆良辨(りょうべん)塚



 良辨僧都(りょうべんそうず)は、南北朝時代の僧侶で、ここから500mほど東にある南蔵院の中興第一世です。良辨は、二本各地の霊場を巡拝し、数百部にのぼる法華経妙法蓮華経)を書き写して奉納して廻りましたが、最後にたどり着いたこの中村の南蔵院に滞留し、周辺の人々を教化したと伝えられています。
 この塚は、碑文によると延文二年(1357)三月二十一日に建立されています。南蔵院真言宗の寺院ですので、開祖である弘法大師空海)が高野山で入定した承和二年(835)三月二十一日の月日に合わせて建てられたと考えられます。建立時に経筒(直径3cm、高さ10cmで銅製の筒)が埋納され、江戸時代に塚を改修した後は南蔵院に保管されています。建立当時この場所は、鎌倉街道の一つに面しており、街道から南蔵院に入る角に経塚を築いて供養し、人々の幸せを願ったのでしょう。
 なお、『新編武蔵風土記稿』に良辨僧都を永正年間の人と記しているのは誤りです。また奈良時代東大寺の大仏造立に尽力した別当良辨僧正とは別人です。
 敷地内にある庚申塔や道標などの石造物は、後にこの地に移されたものと考えられます。





どれがその「良辨塚」なんだろう?


石憧七面六観音勢至道しるべ







◆中村御嶽神社



 中村の御嶽神社は、幕末期に谷原村の増島大傅によって創建されたと伝えられます。大傳は、行者一山の門人としてすでに谷原村に一山講社を結び、御嶽神社(富士見台三丁目稲荷神社)を興し、近隣への布教にも励んでいました。中村では字中内を中心に御嶽山一山信衍講(しんえんこう)が結ばれ大傳を開山として、二代先達内田清心(初太郎)三代先達神田明照(市五郎)と続き現在に至り、奉齋神は天御中主神・高皇産神・神皇産神・天神地祇国常立尊大己貴命少彦名命です。
 現在の社殿は昭和五十二年に新築されました。本殿西側には稲荷社があり、初代大傅はこの祠で祈祷を行っていたといわれています。
 その境内には御嶽山一山講社の講祖一山霊神をはじめ当社先達たちの慰霊碑があります。また明治初年以降の古文書や絵馬が多数保存されています。



稲荷神社



石塔




両神社鳥居

右が御嶽神社、左が稲荷神社。







◆中村八幡神社



 この八幡神社は旧中村の村社で、祭神は応神天皇です。「新編武蔵風土記稿」に「村ノ鎮守ナリ、南蔵院持」とあります。南蔵院はここから東方約400mにある真言宗の古刹で、江戸時代は当社の別当寺でした。
 本殿は、社伝によると、江戸時代前半のものといわれ、練馬区内でも屈指の古建築物です。
 境内本殿向って左手にある文政十三年(1830)奉納の御手洗石に卍の彫刻のあるのが目につきます。神仏混淆時代の名残りをとどめる石造遺物として注目されます。記念碑のまわりには、むかし若者たちが力競べに興じた力石があります。なかには目方が彫ってあるものもあります。
 当社裏の一角に「首つぎ地蔵」があります。首と別々にあった地蔵尊が、信心深い二人のひとの夢枕に立った結果、首と体を継ぐことができたと言い伝えられています。その名にちなみ昭和初期の不況時代には「首切り」を免れようと、参詣者でにぎわったといいます。ここは廃寺となった南蔵院の末寺・西光寺の旧地にあたります。地蔵堂の前の石造物がわずかにその面影を残しています。
「首つぎ地蔵」は南蔵院境内(中村1-15)に移設されました。


八幡神社の本殿

覆屋に納まっている小祠。一間社、流造り、こけら葺。八角柱で土台建。向拝や虹梁の彫刻は素朴で、外面全体は赤く塗られていた痕跡がある。区内では古い建築物で、十七世紀頃の建築と推定される。


八幡神社の水盤



 文政十三年(1830)銘のある水盤です。正面に卍紋、向って左側面に奉納年、右側面に願主の氏名が刻まれています。背面に文字が刻まれていたようですが、 風化のためか判読できません。練馬区に残る古い部類の水盤です。


境内社


楽殿


鳥居







◆稲荷神社







◆田中稲荷神社




先客がいらっしゃった。







地蔵尊







続く。