2022/06/13 日本橋室町散歩 01 パレスサイドビル/一ツ橋/東北線(4)本銀橋ガード/白幡稲荷神社/豊川稲荷神社/両社稲荷神社/福田稲荷神社


24時間勤務アケで、職場からJR浅草橋経由でJR秋葉原駅へ。





パレスサイドビル

職場からスタート。









◆一ツ橋









東北線(4)本銀橋ガード

こちらをくぐって線路の反対側)東側)へ。










◆白幡稲荷神社



抑々白幡稲荷神社ハ東京府武蔵国日本橋区本銀町壱丁目拾八番地)官有地白幡橋詰にあり。御祭神は宇迦之御魂神古来白幡稲荷神社と称す。享保三年戊戌年当山派修験大寿院元明別当職ダシ以来神勤す。八世秀麿に至り明治六年一月神勤を免ぜられ神田神社兼勤社となる。鎮座年代不詳なれども社伝によれば源義家奥州下向ノ途次社頭に白旗ヲ樹てしに始まると云ふ。又新編江戸誌に三寶院派別当大寿院和銅四年鎮座トアリ(和銅四年は人皇四十三代元明天皇の御宇にして今より千二百十余年前なり)何れか詳かならずと雖も本区最古のものなるべきか。往時武蔵国福田村の一部にして江戸開府の頃には神田八丁堀乃ち龍閑川界として以南を江戸とし以西を神田とせり。町名は江戸時代に銀工の多数居住せしに依り起れりと云ふ。当社は大正拾二年九月壱日大震火災の際烏有に帰したるも幸い御神体を奉避し依頼区劃整理にて当町六番地へ換地指定町会員並に建築委員の努力により再建の準備を整へ昭和四年拾月建築に着手す
昭和五年拾五日完成 同時に大祭礼を行ふ











豊川稲荷神社



 このお稲荷さんは何時頃から此の地に祭られたか記録がないのでさだかではありません。
 古老の話しによりますと「昔から俗に「伊勢屋、稲荷に犬の糞』と謂われて江戸時代には神田日本橋の町内には、お稲荷さんと伊勢屋は必ずあったそうだ。従つて江戸時代の末期頃ではなかつたか」という事でした。
 明治四十一年にこのあたりで続けて三件の火災が発生し、誰れ言うとなく「お稲荷さんを粗末にしたせいではないか」と早速、町内有志が集まって荒れ果てていたお宮や境内を清掃修復し、改めて豊川稲荷赤坂別院より導師をお迎えし、ご祈禱を願い、それからは豊川稲荷末社となり、商栄講を組織して、毎年二の午の日にはお祭りをする様になりました。それ以後火災はピタリとなくなり、その後に関東大震災第二次世界大戦と二度の災厄に焼失しましたが、その都度町内一同の努力をもつて復興しました。
 今回も新しい街づくりの為やむなく取り壊されましたが信仰厚い皆様によって再建され町内各位の『家内安全』『商売繁昌』の守護神として今もなお崇敬を集めて居ります。










◆両社稲荷神社



 両社稲荷神社の縁起は定かではありませんが、京都伏見稲荷大社の流れを汲み正一位の神階を授けられ、江戸時代初期より福田稲荷神社と共に当地「日本橋本町」界隈の商人、町人の「家内安全、商売繁盛」の守り神として、深い崇敬を集めている稲荷神社でございます。
 平成五年、御社の老朽化が進んだため改築することとなり、これを機に兩社稲荷神社奉賛会が設立され、以来、尚一層ご神徳を奉斎してまいりました。
 平成二十五年十二月、隣接するビル建替工事のため御社を一旦取り壊すこととなり、再建まで御堂は江戸総鎮守・神田神社神田明神)にお移りいただき、その間、例大祭神田明神にて斎行いたしました。
 平成二十八年十一月、奉賛会員はじめ広く当地崇敬社から寄進を募り、新たな御社の造営が行われました。御宮は以前同様の東立向拝宮、鳥居は朱塗りの明神鳥居といたしました。
 平成二十九年三月、遷座祭を斎行し、御靈を再び神田明神から当地にお迎えし、現在に至っております。









◆福田稲荷神社

以前お参りに来たことがある。
2017/07/30 神田散歩 03 宝田神社・賓田恵比寿/中央区立地蔵橋公園/福田稲荷/神田紺屋町/鍛治町 - ovanの社会科見学



 昔、現在の神田明神のお山から南へなだらかな山裾が続き、そのすぐ向こうは海でありました。その山裾一円を武蔵国南豊島郡福田村と呼んで居りました。福田村は神田山をきり崩して平らな土地を作り、土着の人々は米作りを致して居りました。今に殘福田町、豊島町は当時の名残りでございます。
 和銅年間と申しますと平城京が造られたり、和同開珎として名高い武州足尾銅山の銅を献じて我が国初の貨幣が鋳られたのもこの頃で、凡そ千三百年前のことであります。古事記に依りますと、和銅二年に始めて京都稲荷山に伏見稲荷明神が勧請致されました。それから二年後和銅四年(西暦711年)に伏見より分社して福田村に鎮座したのがそもそも福田稲荷神社の縁起であります。
 稲荷神社には御承知の通り、伏見系と豊川系とございます。伏見は神道、豊川は仏道でございますので、福田神社は純然たる伏見系に属する神道でございます。当時、福田村の人々は五穀豊穣の守護神として崇敬し、この社を中心にして日夜平和な生活が続いたもんと存じます。
 現在に至り日本橋、神田の人々が永く平和を保つことの出来ますのも偏に霊験あらたかなる福田稲荷の御守護の賜物と存じます。










続く。
2022/06/13 日本橋室町散歩 02 地蔵橋公園/本町歩道橋/馬籠勘解由屋敷跡/小伝馬町駅・三縁史跡の碑/大神神社分社/日光街道本通の道標/三光稲荷神社 - ovanの社会科見学