2022/06/13 日本橋室町散歩 02 地蔵橋公園/本町歩道橋/馬籠勘解由屋敷跡/小伝馬町駅・三縁史跡の碑/大神神社分社/日光街道本通の道標/三光稲荷神社

前の日記からの続き。
2022/06/13 日本橋室町散歩 01 パレスサイドビル/一ツ橋/東北線(4)本銀橋ガード/白幡稲荷神社/豊川稲荷神社/両社稲荷神社/福田稲荷神社 - ovanの社会科見学




◆地蔵橋公園

以前来たことがある。
今回はタバコ吸っているサラリーマンが多いね・・・・。

2022/06/13 日本橋室町散歩 01 パレスサイドビル/一ツ橋/東北線(4)本銀橋ガード/白幡稲荷神社/豊川稲荷神社/両社稲荷神社/福田稲荷神社 - ovanの社会科見学


竜閑川埋立記念と書かれた碑の裏にこんなことが書いてありました。

江戸砂子や新編江戸志には 約270余年前の天和年間に防火のために掘ったもので神田橋と常盤橋の間から外濠の水を東方にあった浜町川に注ぐその両岸は石垣でたたみ川巾6間神田堀と呼んだ 元禄4年にも掘った 安政4年4月土手崩して堀を入口の竜閑橋だけを残して埋めたが明治16年再び掘って防火用雨水用として川名を竜閑川と名づけた 昔時この川の西端に住んで居た井上竜閑は江戸城つとめの殿中接待役「お城坊主」として有名であった 後その所を竜閑町といった 当時神田堀の別名に八丁堀火除堀銀堀等といわれ堀の堤を八丁堤といい松を並木に植えた時代もあった 川には舟の往来もあったが近頃下水より汚水流れ込み悪臭を発散しごみを捨てるため蚊蠅等わき衛生上宜しくなく川は全く無用のものとなった 東京都は第二次世界大戦直後川底に大下水管を埋設して戦災燒残土を以て埋立て宅地をつくり復興を促進する計画をした神田及日本橋より選ばれたる連合委員会は賛意を表し将来を推察して新埋立地を土地現住の人々に払下げられたき件を申請し中間に立ちて其労をとる事を願出た昭和25年3月埋立工事竣工しこの大事業も滞なく完成した
今回もと竜閑川のあつた中央地点地蔵橋際兒童遊園の東北隅を選び東京都の御承認を得て竜閑川埋立記念碑を建立したのであります
この埋立は実に千代田、中央両区の握手であって神田、日本橋区民の親和を増進するもの昔は川今は竜閑新道を中心に精励努力以て土地の発展に尽くされん事を








◆本町歩道橋

首都高速1号高架下にあった歩道橋。












◆馬籠勘解由屋敷跡



 この地域には、大伝馬町の草分名主で、公用旅行者のための人馬の継立てなどを行う道中伝馬役を務めた馬込氏の屋敷がありました。
 馬込氏は、天正十八年(1590)に徳川家康の江戸入府に際して、高野新右衛門・小宮善右衛門らとともに駄馬人足を率いて出迎えたことにより、道中伝馬役を命ぜられて、後の呉服橋御門(千代田区丸の内1丁目)内の辺りに位置した宝田村に土地を与えられました。馬込氏の当主の多くは、代々「勘解由」の通称名を名乗っていました。
 慶長十一年(1606)江戸城拡張にともない、宝田村の住人たちが現在地付近に移転して、大伝馬町が起立しました。大伝馬町は、京橋にある南伝馬町と交代で道中の人馬の継立てを行い、江戸府内の継立てを務める小伝馬町と合わせて「三伝馬町」と呼ばれました。大伝馬町の伝馬役を務めた馬込氏は、大伝馬町2丁目北側新道の西角に屋敷を構え、同町の名主役を兼帯して苗字帯刀を許されていました。
 馬込氏の邸内奥には、宝田村の鎮守が勧請され、その御神体である恵比寿神像は徳川家康から拝領したと伝えられています。正月二十日と十月二十日には大伝馬町の大店で恵比須講が盛大に行われ、その前日に開かれた市が、現在十月に開かれている「べったら市」につながっています。なお、馬込氏邸内の恵比寿神像は、江戸時代後期頃から現在の宝田恵比寿神社日本橋本町3-11-11)にまつられています。









小伝馬町駅・三縁史跡の碑



都重寶 石町時の鐘
江戸時代當初の時の鐘で初め江戸城にあり。二代将軍秀忠の時是を 石町 に移し、地元410町より集めた鐘楼錢で維持され幕末まで石町時の鐘として親しまれた。鐘楼櫓下では 蕪村 等が夜半亭と号して俳諧の集ひをしていたことは有名である。傳馬町牢に於ける處刑時もこの鐘を合図に執行されたが、定時に鳴るべき鐘が處刑者の延命を祈るが如く、その都度遅れたとあって、一名情けの鐘とも傳へらる。現鐘は旧楼燒損後寳永8年に改鋳したもので、銘に寳永辛卯四月中浣鋳物師大工椎名伊豫藤原重休とある。昭和5年9月石町寳永時鐘を楼建設会に依り十思公園に移され、28年11月都重寳に指定さる。

傳馬町牢屋敷跡
安楽寺、村雲別院、身延別院、十思小学校及び十思公園を含む一帯の地は江戸時代の傳馬町牢屋敷跡である。牢屋敷は慶長の頃常盤橋際より移り明治8年5月市ヶ谷囚獄が出来る迄存した。幕末の時牢屋頭に大番衆石出帯刀御□(※「木」+「豕」)御用山田淺右衛門がつとめた。當時勤王志士96名が處刑されている。

吉田松陰先生終焉之地
長門藩士 吉田松陰 先生は兵学に通じ憂國慨世の念篤く萩の松下村塾で多くの人士育成は遂に有爵者6名、贈位者17名、有位者14名といふ著名士を出した。先生は國事を論じた罪により安政6年7月傳馬町牢に囚はれ、同年10月27日時30歳にて惜しくも最期をとげた。


駅の出口二か所にそれぞれ上の碑と説明看板があった。








大神神社分社









日光街道本通の道標

現地には道標も説明版も見当たらなかった。



google mapのマークは上の写真のところあたり。








三光稲荷神社

以前お参りに来たことがある。
2017/06/01 人形町散歩 05 三光稲荷/玄治店跡/橘稲荷/出世稲荷/常盤稲荷/伊勢町堀跡/江戸橋/榛原と日本橋 - ovanの社会科見学


御由来

祭神
三光稲荷大神・田所稲荷大明神。大正十三年区画整理にて旧長谷川町と旧田所町が合併して現在の堀留町二丁目になっていますので、田所大明神さまも当神社に奉祀されています。

創建
中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者関三十郎が伏見より勧請したと伝わる当神社は「江戸惣鹿子」元禄二年(1689年)には記載があるところから、それ以前と推測される。

拝殿
右上の額「日本橋區長谷川町守護神 三光稲荷神社」は神田神社社司平田盛胤氏の揮毫である。

江戸時代
近隣には吉原や歌舞伎小屋の中村座市村座、更には操り人形や人形浄瑠璃の小屋等があり、それを背景とした(江戸落語)に「三光新道」や「三光神社」が登場するところとなった。古くから娘、子供、芸妓等の参詣するものが多く、ことに猫を見失ったとき立願すれば霊験ありと云う。「三光稲荷神社参道」と銘ある石碑や境内にある猫の置物は猫が無事に帰ったお礼に建立、奉納された。

※この写真だけ2017/06/01に撮ったもの










続く。
2022/06/13 日本橋室町散歩 03 初姫稲荷神社/千鳥橋跡/蔦屋重三郎「耕書堂」跡/緑橋跡/横山・橘通り共栄会/馬喰横山駅 - ovanの社会科見学