2021/11/20 神田散歩 02 神田錦町一丁目/新御茶ノ水駅・小川町駅/連合会館/幸徳稲荷神社/全電通労働会館/観音坂

本郷通りを北上。
少しわき道に入ったりして史跡を巡る。




神田錦町一丁目



 江戸時代、この界隈は、武家屋敷が軒(のき)を連ねる地域でした。当時の武家地は町名がないかわりに通称が用いられ、南北に走る通りは「錦小路(にしきこうじ)」と呼ばれていました。近くに一色(いっしき)という名の旗本(はたもと)の家が二軒あったことから二色(にしき)、そして「二色小路」がいつのまにか「錦小路」となったようです。
 もっとも、錦という名の由来については、住人が京都にある錦小路にあやかりたいと考え、錦という呼び名を付けたという説や、近くにあった護持院(ごじいん)に、錦のように美しい虫を祀った(まつった)弁財天堂(べんざいてんどう)があったためという説もありますが、本当のところははっきりしていません。
 ちなみに護持院は、享保二年(1717年)の大火で、跡形もなく焼け落ちてしまいました。江戸城の間近で起こった火事に、幕府関係者はよほど驚いたのでしょう。護持院の跡地だけでなく、この町内にあった武家屋敷まで召し上げて火除地(ひよけち)(延焼防止の空き地)とし、万全を期しています。
 神田錦町一丁目(かんだにしきちょういっちょうめ)という町名が正式に生まれたのは、明治五年(1872年)のことです。明治四十四年(1911年)に神田が外され錦町一丁目と変わりますが、昭和二十二年(1947年)にはまた神田錦町一丁目となり、現在に至っています。
 この町は第二次世界大戦でふたたび焦土と化しましたが、戦後いちはやく復興を遂げました。ビル化が進むなかで人口は減少しましたが、町の氏神様である太田姫稲荷神社の祭礼などの行事を通して、人々の心のふれあいが大切にされています。












新御茶ノ水駅小川町駅

東京メトロの駅。


近くにあった地図



みっけ♪














◆連合会館



日本労働組合総連合会(にっぽんろうどうくみあいそうれんごうかい、略称:連合(れんごう)、英語:Japanese Trade Union Confederation、略称:JTUC)は、日本の労働組合におけるナショナルセンターである。国際労働組合総連合(ITUC)に加盟している。自治労日教組など官公労中心の日本労働組合総評議会日本社会党系)、民間産別主体の全日本労働総同盟民社党系)の2大ナショナルセンターを含めた4つのナショナルセンターが合同することで誕生した日本最大の労働組合ナショナルセンター。 』
日本労働組合総連合会 - Wikipedia

ビルについての詳細はわからなかった。
会議室などが借りられるようだ。
連合会館|公益財団法人総評会館~働く人たちの幸せづくりのお手伝い












◆幸徳稲荷神社

一度来たことがある。
2017/08/17 淡路町散歩 08 幸徳稲荷/五十稲荷/太田姫稲荷/甲賀坂 - ovanの社会科見学



 当稲荷神社は旧幕時代、山城の国淀の城主(現在京都府 伏見区淀町-十万二千石)稲葉但後之守(三代将軍徳川家光の乳人 春日の局の後裔)の江戸小川丁中屋敷内に祀られてあったもので、当時は鍛冶屋稲荷と称し代々五穀豊穣・武運長久を祈願された由緒ある社と伝えられています。
 明治維新後は、この地に商家・町人移り住み、町の名も、小川町一番地となり町内の守護神として伏見稲荷神社より霊を勧進し、近隣氏子有志によって新しく社殿を建立。毎年5月14日・15日の両日修祓式を行い、神楽を奏し、祭典を施行して参りました。
 昭和二十一年、小川町北部町会が解散され、現在の四つの町会に分離した時、古老・総代は神社の廃絶を吝み相計り、幸徳稲荷神社奉信会を結成(氏子五百世帯)町会相互の連絡、親睦と一層崇敬を深めつつ現在に至って居ります。
 特に大東亜戦にも社殿は戦災をまぬがれ、戦后の町の復興再建に或は町会発足の基となって、私達を勇気づけ、励げまして今日に至って居ります。
 此度宗教法人となりましたのを機会に、社殿並に社務所を新築し、子孫の守り神として存続するものであります。














全電通労働会館

全電通労働会館(ぜんでんつうろうどうかいかん)は東京都千代田区神田駿河台にあるNTT労働組合の中央本部ビル。』
全電通労働会館 - Wikipedia

会社の労働組合にこんなビルがあるのってすごいね・・・・。












◆観音坂

一度来たことがある。
2017/08/17 淡路町散歩 06 観音坂/山本歯科医院/出世稲荷神社/豊潤稲荷神社 - ovanの社会科見学

元禄期(1688〜1704)まで、この坂の上に芦浦(かやうら)観音寺(芦浦観音と記した資料もあります)が建っていたことから観音坂と名付けられました。その後、観音堂があった場所は旗本屋敷となりました。明治時代には、この地域には実業家や政治家などの邸宅がありました。













続く。