2022/04/28 木場散歩 01 住吉駅/猿江二丁目公園/摩利支天尊日先神社/重願寺/妙壽寺 猿江別院/猿江神社/北向稲荷神社

24時間勤務アケで、東京メトロ半蔵門線住吉駅から東京メトロ東西線木場駅まで散歩。
その後は地下鉄で同じく東西線東陽町まで移動したあと、東西線南砂町まで散歩。
更にその後は地下鉄で出発地の東西線竹橋駅まで移動し、国立公文書館を見学。








東京メトロ半蔵門線住吉駅南西エリアを散策。





住吉駅




夕やけ小やけ

原画 中島 潔
共産 タカラスタンダード株式会社










猿江二丁目公園










◆摩利支天尊日先神社

工事中だったので外からお参り。









◆重願寺



 重願寺の山門は、平成十二年(2000)より始まりました「重願寺開創四O○年記念平成大復興」の事業の一環で建立されました。
 その復興計画では、寺院建築の象徴でもある古来の形式である「山門」建立を念願いたしておりました。
 そして、ご縁のある法相宗大本山薬師寺·安田藤胤(やすだえいいん)管長のご好意を頂けることとなり、重願寺が日本橋馬喰町に創立し、寛政七年(一795)に現在の地·猿江に移転をした同時期に薬師寺に建立をされた「講堂」(教場)に使用されていた用材を頂戴いたすこととなり、今回山門の柱に、その由緒ある本材(樹齢約四O○年)を用いることとなりました。
 そこで、宮大工 牧野重義棟梁(東京足立区在住)にお願いをし、「四脚門型の山門」として、平成十六年(2004)完成いたしました。
 今回、大和の郷にあったその歴史ある建物が、牧野棟梁の手によって一本一本彫刻をほどこし、「山門」という形で五〇〇キロ離れた江戸(東京)の地に蘇りました。
 この山門は、重願寺の寺宝として末永く、檀信徒の皆さんとまた地元の皆さんと、護持していきたいと念願しております。


関根正二墓 ~若くして世を去った大正時代の個性派画家~

 洋画家の関根正二は、明治三ニ年(1899)に福島県西白河郡大沼村(ふくしまけんにししらかわぐんおおぬまむら)(白河市)で、九人兄弟姉妹の第四子次男として生まれました。同四一年(1908)に上京して東京市深川区深川東町四六巻地(住吉一|四~八付近)に住み、東川尋常小学校に通い、同四五年(1912)に卒業しました。その後、近所に住む幼なじみで日本画家の伊東深水(いとうしんすい)の紹介で東京印刷株式会社図案部に勤めますが、大正四年(1915)に退社しました。その間、洋画研究所に通ったり、他の洋画家から強い影響を受けたりしました。
 上京後の正二は深川の住居で生涯を過ごし、砂村(すなむら)の風景を描いた作品なども制作しています。大正四年(1915)の第ニ回二科展に「死を思ふ日」を出品し入選しました。以後、毎年二科展で認められ、同七年(1918) の第五回二科展では「信仰の悲しみ」「姉弟」「自画像」が入選し、新人賞にあたる樽牛賞(ちょぎゅうしょう)を受賞しました。
 若手の才能ある画家として、将来を期待されましたが、スペイン風邪や肺炎を患い、同八年(1919)六月、深川区東町の自宅で二0歳ニか月で亡くなりました。現在、正二の次姉の嫁いだ奥田家の墓に埋葬されています。


みまもり観音



みまもり観世音は東京大空襲による戦災や関東大震災などの巡害で殉難さ孔た方々のご冥福を祈り戦争や天災,引たらす悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため 當山擅信徒をはじめ 猿江地区六ケ町有志の方々等一萬数千卷 に及ぶお写经の勧進によって造立さ叭ました(昭和五十六年九月一日序幕開眼)観音像 足下の地下収納庫には五千人に及ぶ人々のご納経がカプセルに保護きれて枚められています
永まもり観音と云う名称は殉難された多くの方々に対する心からなる尉霊の念をこめて 観音さまに「亡き人々を「みまもり給え」と願い また限りない観音さまの大葱悲をもって いま、生きる私たちを「日々にみまもり給え」と祈念して名づけられました。
 戦災 に消えし亡き人々よ 安かれと
 祈りて今朝も 経の字を写す
 主水


山門










◆妙壽寺 猿江別院










猿江神社

お参りに来たことがある。
2018/03/02 大島散歩 06 猿江神社/小松橋/扇橋閘門/豊川稲荷神社/新扇橋/豊川稲荷大明神 - ovanの社会科見学



源頼義,義家父子の奥州遠征(前九年の役後三年の役)において、武勇の士と讃えられた室家臣[猿藤太](さるのとうた)が、此の地の入江にて力尽き亡くなった。これを知った地元の漁師達が、当社の境内に塚を建て手厚く葬り、此に因んで猿藤太の「猿」と入江の「江」の字を取り結び「猿江」の社名になったとされる。
創立年代は不詳であるが、康平年中(1058)には境内地三百余坪を有した稲荷社として近在の信仰を集めていた。
本殿は旧社殿が関東大震災で焼失後、宮内庁設計技官「小川猪作」氏により、都内では最古の鉄筋コンクリート造りの頑丈優美な社殿として、昭和六年に再建された。このため大東亜戰争下の東京大空襲にて深川一带が灰燼に帰した時も奇跡的に難を免れ、錦糸町駅からは一面の焼け野原にこの御社殿のみが望めたという。
昭和二十一年に伊勢大御神を合祀し「猿江稲荷神社」より社名を改称。「稲荷神社」の社号碑は此れを今に伝える。
又、当時は荒川沿い東大島近在までの氏子地域を有した。古くより深川を見守る一千年余 の歴史がある由緒深き神社である。


観音社


藤森稲荷社



創立不詳ながら、江戸時代初期には本所横網町の江戸幕府御用材木蔵にすでに祀られていた。
享保19年(1734)御用材木蔵と共に猿江の地(現在の猿江恩賜公園)に遷座された。明治以降は宮内省所管となり、この頃から猿江神社の宮司家により祭祀奉仕がなされている。
亦、社殿が藤の木で囲まれ、毎年花の咲く時期に祭礼が行われていたことから、何時しか藤乃木魂を祀る「藤森神社」と称され、四百年余に亘り木材作業に従事する人々の厚い信仰を享けてきた。
昭和52年春、東京都の都市計画による猿江貯木場の移転に伴い、現潮見駅前に遷座されるが、平成13年12月崇敬なる旧東京官材共同組合長氏橋幸次郎氏及び東京広葉樹連合会会長長谷川建治氏、他関係諸氏の総意尽力で再び縁深きこの猿江の地に戻り、猿江神社の境内に安宮遷座される。
江戸時代より木材の守護神として商売繁盛、工事作業安全のご利益があるとされている。
尚、石燈篭一対(弘化5年)、石水盤(貞享3年)は区の有形文化財である。


猿江地名発祥之地の碑


石塔等


神猿

前に来た時はなかった。











◆北向稲荷神社

猿江神社境内裏にあった神社。










続く。